雨の長崎・路面電車まつりの旅B

2006年(平成18年)11月11日に長崎電気軌道浦上車庫で開催された「路面電車まつり」に行った時の旅行記です。

 平和公園の周りでは、多くの観光客がガイドの説明を聞いたり、写真撮影を行っていた。平和公園は原爆投下当時、長崎刑務所浦上支所があったところで、今もその建物のコンクリート跡が残っている。これも原子爆弾によって破壊されたものだ。

 平和祈念像の前の広場の隅っこに腰を下ろし、さぁ食べようと思っていたら、ゴロゴロと雷がなった。あたりは少し暗くなっていたが、雨は降っていなかった。いよいよ雨が降りそうになってくると、団体客は急いで記念撮影を始めた。おにぎりを食べ終わった頃、パラパラと雨が降り出した。雷の音も近づいてきた。

 今から61年前の夏、この上空で一発の原子爆弾が炸裂し、何万人もの人々が一瞬にして命を奪われた。その後も核開発は進み、つい先日には北朝鮮が核実験を行ったと発表した。それを受けて日本でも「核保有の議論をしよう。」「核兵器を保有してもいいんじゃないか。」という発言をする人が出てきた。なぜ核保有を考えようとしているのかが私には全く理解できない。「自分の身は自分で守れ」と主張する人もいるが、それは世界中から核兵器をなくそうと努力しているほかの国々に対し、「核兵器の削減なんて無駄なんだからあきらめなさい。核を持って対抗した方が良い。」と言っているに等しく、実際はあきらめ肝心のネガティブな意見である。

 それで何の解決になろうか。いざ戦争が始まったら、核兵器を飛ばしまくって勝ち誇ろうとでも考えているのだろうか。日本が日本国憲法前文通りに国際社会で名誉ある地位を占め、信頼されているのはなぜか。それは、日本に核兵器保有能力があるのにあえて持たず、むしろ世界平和のために尽くしてきたというところにあると思う。日本が核兵器を持とうものならば、核拡散防止条約(NPT)からの脱退は必至であり、国際社会からの孤立は避けられないだろう。

 にも関わらず、日本政府はおろか、戦争を身をもって体験したお年寄りの間からも核を保有しようと主張している人が多くなってきており、私は強い危機感を感じている。暴走を始めつつある政府に歯止めをかけるはずの国民が政府の危険な考えに流されてしまっては、もうおしまいである。

 現時点で日本が核を保有しようと急ぐのは時期尚早だ。国際社会と連携して核削減を核保有国に促すのが先である。核を持つから他国も対抗して核を持とうと考える。これでは世界中が核兵器だらけになってしまう。

 また頭上で雷が鳴った。今に私たちの頭上にとんでもないものが落ちてくるのでは・・・。そんなことを決してさせてはならない。私は被爆地ナガサキの丘を急ぎ足で下った。ふと後ろを振り返った。あの日、生きたくても生きられなかった犠牲者の冥福を静かに祈る平和祈念像が目に入った。平和祈念像の指差す空がいつまでも青いままでありますように――――。

 松山町電停に着いた頃には、雨がやや激しくなっていた。松山町電停から電車に乗って、再び浦上車庫に戻った。雨は一旦やんだが、再び降りそうな状況だった。遊覧電車の160形は運転を休止し、車庫に戻ってしまった。車体が木製だけに雨に弱いのだろうか。いや、雨に濡れたくらいで運行休止となるようでは電車失格である。主催者側は、「動態保存扱い」なのでここは丁重に扱うべきだ、と判断したに違いない。

 再び雨が降ってきた。今度は本降りである。私はたまたまアンケートを書こうとテントの下に入ろうとしていたところだったので、傘を差すまでも無かったが、しばらくはここに足止めされそうだ。早速アンケートの設問に答え、係りの方に提出した。提出するとくじ引きをすることができ、早速くじを引いてみたら「5等ですね。」と言われた。5等は何かな、と見てみると、「う○い棒」1本だった。苦笑しながら1本もらった。

 ここにいてもらちが開かないので、折りたたみ傘を差しながら車庫内を再び見学した。雨が降っていたので、雨宿り代わりに元都電や元仙台市電などの「他都市から来た電車」車内にいた人も多かった。その中でも人数の少なかった元都電の車内に入ってみることにした。元都電の車内は○×ゲームに使用されたらしく、その跡がそのまま残っていた。

 雨が小降りになってきたので車外に出て、電車の撮影を再開した。路面電車にここまで接近してまじまじと見ることができるのはこの機会しかないので、元都電を中心に観察した。元都電のヘッドライトの中の電球が上からにょきっと出ていることは今回はじめて知った事実である。

 縁日コーナーの横では、「お絵かき電車」なるイベントが開かれていた。文字通り、電車にお絵かきをするのである。今回使用された電車は500形503号車。こちらは小学生以下が対象で、画材は貸し出していた。しかし、電車に直接描くのではなく、車体に貼られた紙に描くようになっていた。

 その後、再び電車部品販売コーナーに行った。リュックサックの中身を整理したので、少し余裕ができたからである。品物の種類は一部入れ替わっていて、つり革はもう無かった。先ほど「これはどう?」と勧めてきた係りの方が再び、

係りの方:「これはどう?50円だから安いよ。」

と勧めてきた。係りの方の手にあったものは、スピーカーである。「輸送能力」に余裕ができたので、それも買うことにした。

係りの方:「もしかすると配線つなげたら使えるかも・・・。でもどうかな〜。50円ですね。ありがとう。」

と、50円しか払っていないのににこにこ顔で対応してくれた。係りの方の対応も良く、展示物も珍しいものばかり・・・。私は利用しなかったが、イベント終了直後からは「無料帰宅電車」まで運行すると言うサービスもあった。長崎電気軌道の「路面電車まつり」は、まさに理想的な鉄道イベントとも言えるだろう。

 雨は既に止んでいた。その後、途中までしか行けなかった本社ビルの「電車資料室」に向かった。こちらにも多くの人がいて、ビデオ上映や模型電車の運行も行われていた。資料室には、4年前の「路面電車まつり」で行ったことがあるものの、よく覚えていなかった。今回、再び資料室の展示物を見て、ようやく「あぁ、こんなものがあったな。」と思い出すことができた。「チンチン」と鐘を鳴らすことができる展示物もあり、小さい子供が面白がって何度も鳴らしていたので、ややうるさくもあった。

 時刻は12時25分を回っていた。そろそろ次の目的地に行かなければ、と会場を後にした。次の目的地は、JRの西浦上駅である。駅舎の撮影だけが目的で、撮影後はそのまま路面電車で旧市街の西浜町周辺で行動することにしている。浦上車庫前電停から赤迫行きの300形に乗車した。

 車内は満員で、後部ドア付近で立つことになった。数分程度の乗車で、千歳町電停に到着。ここから徒歩2、3分の場所に西浦上駅がある。西浦上駅のページは、当サイト「JR九州 あの駅、この駅」内で既に公開していたが、写真が車内から撮ったものなので分かりにくかった。そこで西浦上駅の駅舎だけでも撮影しようとここまで来たのである。西浦上駅はすぐに見つかり、駅舎を撮影するとすぐに引き返した。

 電停まではアーケードの中を通った。アーケードの天井には、「長与町 ダイヤモンドシティー建設反対」という幕が掲げられていた。

 このダイヤモンドシティーというのは、おそらく大型商業施設のことであろう。これができてしまえば、このアーケード内の売り上げは減るに違いない。長崎市でも同じような問題を抱えているようだ。「長崎市でも」と書いたのは、佐賀市でも同じような状況だからである。こちらの場合はもはや手遅れの状態に近く、既に佐賀市内だけで4つの大型商業施設が開業、またはまもなくの開業を控えている。おかげで佐賀市中心部のアーケードは文字通りの「シャッター通り」と化し、場所によっては火災後の復旧が完全にされないままの場所もある。長崎市のアーケードのように、大型商業施設の建設を阻止しようという動きがあったのならば、少しは状況が変わっていたのかもしれないが、佐賀市に5年間住んでいてもそのような話は全く聞いていない。佐賀市の事業失敗もあり、中心商店街は今や息絶え絶えの状況と言っても過言ではない。

 しかし、本当に批判すべきは大型商業施設を出店する側であり、それを便利だ便利だと言って自家用車で乗り付けて買うだけ買って帰る地元住民の生活スタイルである。もはや多くの佐賀市民にとっては車なしでは生活できない、という意識が定着してしまったような感もある。それが果たして街のため、環境のため、そして自分のためになっているのか。なるはずがない。佐賀市街地の範囲は狭いし、平坦地だから自転車で十分である。自動車で移動するよりも自転車で移動した方が早いこともある。これだけ好条件が揃っているのに近距離で自家用車を利用する理由があるのか。あるとすれば、まとめ買いができる点であろう。しかし、まとめ買いは最終的に消費期限切れなどによるゴミの増加に繋がりかねない。

 中心商店街の再生には、その設備や内容のリニューアルも必要だが、それ以前に地元住民が「車社会からの脱却」を実行することが必要である。

 さて、アーケードの出口までやって来た。これから先の目的は路面電車の撮影であるが、「街の中の路面電車」を撮りたいと考えているので、このアーケードの中から撮影を行うことにした。

 数枚ほど撮影した後、西浜町方面に向かうために最寄りの住吉電停に移動して電車を待った。

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