青春18きっぷで行く北陸経由東京旅行2004

12月28日

去年の北海道に続き、今年も管理人は青春18きっぷを使った旅行を計画した。題して「青春18きっぷで行く北陸経由東京旅行」! 次の停車駅は宮島口で、定刻では23:59と大変微妙な時間に発車するはずだったが、先ほどの緊急停車で、数分遅れ、日付が変わった後だった。広島では、多くの乗客が乗ってきた。寒い中待っていたのだろう。遅れているので、乗客が乗り終わると、急いで発車。窓から駅のホームを見ていると、発車したホームのさらに隣のホームに、なんとEF65に連結された、蒸気機関車が停車していた。カメラ、カメラ・・・と、あせるが、カメラは網棚の荷物の中。結局間に合わず、撮影できなかった。おそらく、大晦日に山口線などで深夜運行される、初詣列車のために回送されているのだろう。機関車は、ナンバープレートこそ暗くて見えなかったが、あの小さめの車体に、バック運転時に、後ろが見やすいように斜めにカットされた炭水車から、「高原のポニー」と呼ばれる、C56だろう。JR西日本のシゴロクといえばC56−160なので、おそらくそれであろう。列車はどんどん加速していく。

相変わらず、列車はよくブレーキがかかり、衝撃も多い。乗客のほとんどはぐっすり眠っているが、私はなかなか眠れず、窓の外を見ると、暗いながらも、瀬戸内海が見え、島影も見える。すると列車の真上に黒い物体が立ちはだかった。橋のようであった。こんな橋があるということは・・・映画の街・尾道を通過していたのだ。うとうとしていると、列車は岡山に到着。ここでは、「ムーンライト松山・高知」との併結が見ることができる。他の乗客は自販機で飲み物を買っているが、私をはじめ、併結を見たい人々は、先頭車のほうへ集まってくる。

まずEF65を切り離し、数分後、青い車体の「ムーンライト高知(松山?)」がバックで入線。そして「山陽」と連結。私はその模様をデジカメの動画で撮影。まもなく発車なので、車内に戻る。その後、岡山駅での恒例行事を見て満足したのか、そのまま寝てしまったらしい。

翌朝起きたのは、神戸のあたりで、夜行列車恒例の「おはよう放送」が流れてきた。計画では、大阪でいったん途中下車し、急行「きたぐに」に乗るための急行券と、乗車券を買い、新大阪に向かい、再び大阪に戻ってくる、ということになっている。さっそく大阪駅で下車し、きっぷ一式を購入した後、新大阪へ201系の普通電車で向かう。(下の写真は新大阪に到着した201系・京都行き。)

「きたぐに」が来るまで30分以上あるが、改札を出たり入ったりして、時間をつぶし、到着15分ぐらい前にホームへ下りる。人はまだまばらで、空はやっと明るくなってきた頃である。そして、3つのライトをらんらんと光らせた日本唯一の583系定期運用「きたぐに」が入線した。(縦に光線が入っておりますが、ご了承ください。)

新潟の地震による徐行運転で遅れがあるかと思いきや、ほぼ定刻に到着した。自由席車内に入る。普通車仕様になっており、ベッドは、しまいこまれた状態であった。年末だから満席か、と思って乗ってみると、自由席に限っては、乗客はまばらで、余裕でボックスに一人で座れた。(でも乗車時間は約4分。)となりの車両はB寝台車になっていて、むしろこっちのほうが、乗客も多いようである。その証拠に、たくさんの靴やスリッパが並んでいた。(散乱していた?)

新大阪発車直後、終点大阪に到着するという放送があった。放送のメロディーは、もちろん「鉄道唱歌」。個人的には大好きである。このあとは、T−1グランプリの、山陽本線(和田岬線含む)と東海道本線、JR東西線、大阪環状線の全線区乗覇のため、神戸に行ったり、大阪に戻ったりと、関西の電車を満喫した。

大阪駅を223系新快速電車で後にする。午後は、京都での行動が主になる。計画では、奈良線に乗り換え、東福寺で京阪電車(写真の5000系)に乗り換え、坂本竜馬が、幕府の捕り方に襲われた伏見の旅籠(はたご)・寺田屋に向かう。

私は鉄道も好きなのだが、歴史にもまた興味があり、特に坂本竜馬は、星の数ほどいる偉人のなかでも一番好きな人物である。寺田屋は現在も、竜馬が襲われた当時の建物で営業しており、宿泊も可能。(1泊7000円)見学時間中は、一般公開され、おとな400円で私、中学生は300円。東福寺で、京阪電車に乗り換える。入線してきた準急は黄緑と、深い緑のツートンカラーで、丹波橋で、準急を待ち合わせている特急に乗り換える。JR慣れした私にとって、特急が、準急を待つとは、ちょっと乗りにくかった。特急はすぐに中書島駅に到着。地図があるというので、見てみると、たしかに徒歩3、4分程度のところに「寺田屋」と書いてある。しっかり見て出発!・・・したのはいいが、ぜんぜんそれらしき建物は見当たらず、「伏見運動場・相撲場・テニス場(確かこう書いてあった。)」などという看板が建っており、ここにきて、道を間違えたことにやっと気づく。そして、中書島駅にいったん戻った後、地図を見直すと、なんと寺田屋とは正反対のほうへ行っていたのだ。恥ずかしながら、寺田屋の位置を再確認し、出発。そして、付近をさまよった後、12:20頃ついに「寺田屋」を発見!

別の角度から・・・

漫画「おーい、竜馬」(武田鉄也原作・小山ゆう・漫画)に出てくる寺田屋とそっくりである。ということは、さっき渡った遊歩道が整備された川は、寺田屋前の船着き場の跡か、と、江戸時代末期の様子と照合してみる。しかし、前の道は、かなり狭く、とても船着き場の跡とは言いがたく、寺田屋の周りには、観光客が何人かいて、隠れた観光スポットとなっているようである。観光客用の入り口は、写真右側の垣根の裏にあり、古い引き戸を開けて中に入る。左側に、こじんまりした受付口があり、70歳ぐらいの優しそうなおばあさんが一人いた。そのおばあさんから、パンレットと、見学記念券であろう昔の土佐藩(今の高知県)の藩札を模した券をセットでもらい、靴はビニール袋に入れて室内へ。階段を上がって(お竜が、裸でかけ上がった階段は裏にある。)2階へ。階段の壁には薩摩の西郷隆盛、長州の高杉晋作、そして坂本竜馬の指名手配書が貼ってあった。

 上がったすぐのところに、何枚かの人物写真が飾ってあった。(写真撮影はOKということなので、デジカメで撮影。)

 一番右の人物は武市半平太だとすぐに分かった。その隣は吉村虎太郎。この二人は、明治維新を見ずして絶命した志士たちの1人である。左側には、坂本竜馬を支えた女性たちの写真もあった。左から、若い頃のお竜、真ん中が晩年のお竜、そして一番右が、この寺田屋の女将、お登勢である。この隣に、坂本竜馬と同席していた長州藩士・三吉慎蔵が幕府捕り方に襲われた竜馬お気に入りの部屋があった。部屋に入って見ると、案外狭い。そこには、お登勢が嫌がる竜馬に無理に勧めて、絵描きに描かせた肖像や、刀が置いてあった。その隣の柱には、なんと竜馬がピストルで撃ったという弾の弾痕が残っていた。

捕り方は、奥の私が今上ってきた階段から侵入してきたという。そこで、竜馬がピストルで応戦。竜馬は負傷するも、敵の隙をついて、裏口のお竜が駆け上がった階段から脱出。その後、無傷の三吉慎蔵が薩摩藩邸に走って、薩摩藩に助けられたのである。写真は、裏階段近くにあった刀痕と、かの有名な裏階段である。この階段の向こうには、急を知らせたお竜が入っていたと思われるお風呂もあった。

ただでさえ道を間違えたことで、時間がなくなり、12:50頃寺田屋をあとにし、再び中書島駅に戻る。そして、行きとは逆の経路で、東福寺に戻り、JRの221系に乗って京都へ戻った。京都駅舎といえば、京都タワーといっしょに、京都市の景観問題のタネになった建物である。たしかに京都の街に似合わない建物ではある。1999年公開の映画「ガメラ3」という怪獣映画では、この京都駅が最終決戦の舞台(ちょうどコンコースのあたり)となり、瓦礫に埋まる201系電車や、ラストでは京都駅が完全に爆破されてしまう。そういうところにも、この建物を皮肉ったところがあるのだと思う。(上から、入り口・コンコース・天井。)

このあと、市バスに乗って、梅小路蒸気機関車館に向かう。京都市バスは、料金均一区間なら220円で、どこまでも乗れる。観光客への配慮であろう。このバスが金閣寺(実際は『寺』を付けてはいけないらしい。)方面行きであるからか、バスには、外国人も乗っていて、さまざまな会話が飛び交っていた。約10分で最寄りの梅小路公園前に到着。梅小路公園を横切り、歩いて2分ぐらいのところに、入り口があって、券売機で入場券を購入し、14:00頃入場。この日は、梅小路蒸気機関車館、2004年最後の開館日であった。この入場口の建物は、旧二条駅舎を移築して、使用しており、ミュージアムショップや、映像による説明のコーナがあった。

今日は14:30から臨時で、梅小路蒸気機関車館の目玉となるC62−2号機によるスチーム号の運転が行われるということで、スチーム号の整理券発売所近くの休憩所で整理券の発売を待つ。1回100円で、往復1kmを約10分で往復するという。すでに休憩所横には、昔からの「つばめ」マークを除煙板につけた、C62が煙を吐いて待機していた。

やがて、スチーム号(トロッコのような客車)への乗車が許可され、乗車。発車時刻が迫るにつれ、家族連れを中心にどんどん乗ってくる。ようやく発車時刻・・・というころになって、『駆け込み乗車』をする人もいた。機関士の案内の後、腹のそこまで響く、汽笛を鳴らして、ゆっくりとバックで発車。少し行くと、山陰本線のガードをくぐる。ここでも、汽笛が鳴り、乗客が歓声を上げる。速度は大変ゆっくりで、自転車と変わらないくらいである。(まぁ、この短い線路では、速度を上げることがまず無理であるが・・・。)そして、折り返し地点に到着すると、機関士の案内放送があったあと、再び汽笛を鳴らして、また戻っていくのである。車両がトロッコになっているので、煙をはく様子など、間近で見ることができた。「スチーム号」から降りて、この蒸気機関車館のシンボルともいえる、扇状車庫に保存されている蒸気機関車たちを見学。

複雑な構造ゆえに、日本はこれからだ、という昭和20年代前半に姿を消したC53や、構内入れ替えが主な運用だったB20など、さまざまな用途や、時代に製造された蒸気機関車がたくさんあった。しかし、SL「やまぐち」牽引のC57−1と、昨晩、広島駅で目撃したC56−160はやはりいなかった。あっというまに時間が過ぎ、今年最後の運転となるSL「スチーム」号が発車する、という放送が流れてきた。走行写真を撮影するため、近くの広いところで構える。私のまわりには、たくさんの見物人が来ていて、それぞれ写真を撮ったり、ビデオカメラで、撮ったり、忙しそうであった。やがて、汽笛を鳴らし、発車。例の如く数分後に帰って来て、乗客を降ろした後、人々が転車台のほうへ集まりだした。

どうやら、C62が方向転換をするらしい。線路のすぐ前は、すでに人が集まっていたので、少し離れた、人があまりいないところを陣取る。C62は係員の誘導で、転写台の上に乗り、サービスなのか、1回転半した後、バックで別の留置線に入った。

 人々もまた、その留置線近くに移動している。停止位置に止まると、係員2人がホースを持ってきて、水を流し始めた。案内放送では「石炭の燃えカスを、取り除く作業」らしい。作業が始まると、C62の腹の下から、真っ赤に燃えている石炭のカスが出てきた。係員は、さっきのホースで、水をかけ、冷やしている。炭水車でも何か行われているようなので、少し離れた所まで行ってみると、石炭の運び出しのようなことをしていた。そうこうしているうちに、今度は、再び車庫に戻るということなので、他の人たちともども、転車台近くに行ってみる。石炭を抜き取ってもまだ走れるようで、難なく転車台に乗り、方向転換をした後、再びバックで扇状車庫へ戻り、2004年の運行が終了した。時計を見ると、まだまだ時間があるので、屋内に入る。機関士が、石炭をカマへ入れるための、スコップや、SLの歴史などが紹介してあった。最後に、ミュージアムショップへ寄る。いろいろあって、悩んだ結果、JR特急の下敷きと、私が一番好きな蒸気機関車・C57をデザインした、純金のしおり(本にさすあの「しおり」)を購入。16:20頃、梅小路蒸気機関車館をあとにした。

行きと同じように梅小路公園を横切り、梅小路公園バス停へ。ほぼ5〜10分毎にバスが来ているようで、すぐ来るだろうと思っていたが、道路が渋滞し、結局15分も待たされた後、京都駅行きのバスが来た。帰りは15分くらいかかり、京都駅に到着。ラッシュの時間帯で、京都駅前のバスターミナルも、バス乗り場がなかなか空いておらず、入り口のところでバスは数分待たされた。京都駅舎に入る。あまりにも大胆な構造なので、目が回りそうになった。ここにきて気づいたのだが、関西では、エスカレーターに乗るとき、急がない人は右に寄れ、と教えられていたので、右に並ぼうとしたら、前の人たちはみんな左に並んでいるではないか!しかし、今朝の大阪ではみんな右に並んでいたはずだ。うーむ・・・謎である。もしかすると、東京の並び方が次第に浸透していっているのかもしれない。そんなことを思いながら、記念にわざわざみどりの窓口で入場券を買ったり、駅の連絡通路にある、JR西日本系列の「フードサービスネット」の「旅籠弁当」という、いかにも京都らしい名前の駅弁を買ったりして時間をつぶし、米原方面行きの新快速に乗るため、ホームへ。すでに真っ暗になっていた。もちろん、夕方のラッシュの時間帯なので、座れないことは覚悟していた。向かい側のホームには、283系特急「オーシャンアロー」が停車していた。やがて、米原方面行きの223系新快速が入線。車内は満席だったが、そんなに立っている人はおらず、数分行くとぼちぼち席が空いてきたので、座った。223系は最高速度で、琵琶湖の湖畔をかすめるように走り抜け、あっという間に、米原に到着。米原からは、JR東海区間になる。313系電車が、待っていた。早速座席を確保し、列車が発車すると、旅の醍醐味である、駅弁を広げた。

リーズナブルな割には、いろいろ入っていて、おいしかった。計画では、岐阜まで行って、2005年3月31日で廃止される、名鉄岐阜市内線の路面電車に乗ることにしている。

早速岐阜駅で降りて、その路面電車の「新岐阜駅前電停」を探す。しかし、ぜんぜん見つからず、大通りを進むが、やはり結果は同じなので。あきらめてオプション計画にしていた、高山本線の美濃太田まで往復することを選択。20:29発の高山行きのキハ48の2連に乗る。

岐阜駅に置いてあった、地図を広げてみる。すると、さっき歩いていた大通りで引き返した地点から、約200m先に、電停があったのだ!!しかし、もう間に合わない。気づくのが遅かった。悔やんでいるうちに、列車は美濃太田に到着。

美濃太田で途中下車して記念に入場券を購入した。そして、21:37発の、岐阜行きキハ11に乗車。

乗り心地はよく、座席も悪くなかった。ロングシートの座席と向かい側のボックス席には、留学生らしき英語国の男性が座っていた。中には運転席から駅停車前に聞こえてくる「チンコンチンコンチンコンチンコン」という警報音にあわせ、座席を叩いてリズムを取って、遊んでいる人もいた。やがて、列車は岐阜駅に到着。そして大垣行きの211系電車に乗った。車内は満席で、立つ人も多かった。中には、たちの悪そうな酔っ払いも乗っていて、若い女性にからんでいて大声でなんだかんだ喋っているものだから、かなりうるさく迷惑だった。そして、大垣には数分遅れて22:30頃到着。1年ぶりに大垣駅に降り立った。ぼちぼち大きな旅行バックやケースを持った、旅行者が集まりだしていた。おそらく、先発の23:00発の快速「ムーンライトながら92号」と、後続の快速「ムーライトながら」に乗る人々であろう。大垣でも、途中下車して、記念にみどりの窓口で入場券を購入。22:45頃、改札を入り、今夜の宿、快速「ムーンライトながら92号」の到着を待つ。大垣駅のホームには、名物でありながら、非常に危険な「大垣ダッシュ」を防止するため、制限速度10km/hが設けられている。(しかし、時速10kmは、もう走っているといえるのではないか?)

22:55の少し前位に、183系の快速「ムーンライトながら92号」が入線。

さっそく乗り込む。後続の定期「ながら」のほうが、東京到着時刻は早いが、少しでも夜行列車に乗っていたいのと、この183系は、去年、やはり品川発の「ムーンライトながら91号」に乗ったとき、始発駅発車直後に、鉄道唱歌の車内メロディーが流れてきて、いいなぁ・・・・と思い、こっちを選んだのである。さて、私は、この「ムーンライトながら92号」の中で、全車普通車指定席なのに、10号車だけグレードが高い、という情報を手に入れたので、おそらく10号車から指定が埋まっていくだろうと考えて、1ヶ月前の10時に佐賀駅のみどりの窓口に並び、10時の30秒前(マルスの機械に、なんと時報機能が付いていた!)に、10号車の指定を申請。余裕で取れた。なるほど、確かに他の車両と少し違う。通路と、両側の座席に、バスのような段差があり、座席のほうが1段高くなって、窓も明らかに他の車両と比べ、大きいのである。さっそく座席へ座ってみた。しかし、座り心地は他の座席に比べて、あまり変わらなかった。

やがて電車は、大垣を定刻の23:00に到着。残念ながら、期待していた「鉄道唱歌」のメロディーが無いまま、車内放送が始まった。満席を予想していたが、私の乗っている10号車は、乗車率は50%ぐらいで、半分くらいの席がまだ空席のままだった。次の停車駅、穂積では、数人の客が、ホームで待っていたが、10号車に乗ってくる人はいなかった。さらに次の岐阜や尾張一宮、名古屋でも、数人乗ってきたが、それでも満席になることは無かった。しかし、この後は、もう深夜帯に入ってくるし、乗り継ぎ列車も制限されてくるから、たくさん乗ってくるとは考えにくい。大多数のキャンセルがあったのだろうか?でも、自宅を出発する直前に、乗車列車の指定状況を見ることができる、「サイバーステーション」を見てもやはり、『×』(満席)になっていた。なぞである。私は名古屋発車後に、寝てしまったようだ。

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