青春18きっぷで行く、さよなら餘部鉄橋惜別旅行H

明治の奇蹟、餘部鉄橋。2007年(平成19年)春から老朽化や列車のさらなる定時運行を目指すために架け替え工事が始まり、着工から1世紀近くに及ぶ歴史に幕を下ろします。私は、2006年(平成18年)春に続き、最後の訪問として、冬の餘部鉄橋に向かいました。

 岡山駅からは、117系快速「サンライナー」福山行きに乗車した。座席の座り心地は非常に良く、どうかするとJRが製造した車両よりも上かもしれない。

 電車は、岡山駅を発車すると、主要な駅に停まりながら、山陽本線を下って行く。途中の駅で、先発の広島方面行き快速を追い越した。福山駅では、先ほど追い越した快速に乗り換えた。しかし、福山駅から乗る人が多かったので、座席には座れなかった。代わりに、前方風景を楽しもうと運転席後ろで立つことにした。

   電車は、山陽本線をゴトンゴトンと、比較的ゆっくりとした速度で走る。昼間は特急が走っていないので、このような運転でも大丈夫なのだろう。でも、個人的には、ゆっくり走ってくれた方が落ち着くし、急がす焦らずの雰囲気も良い。私は、こうした山陽本線が好きである。

 左手に瀬戸内海が広がるようになった。海面に反射する日光がとてもきれいで、こんなに美しい車窓を見ながら通勤通学ができる人たちが羨ましくなった。

 糸崎駅で、岩国行きの115系に乗り換えた。

 発車してしばらくすると、電車は山の中に入った。山の間を抜け、トンネルを走り、木造駅舎の残る駅に停まるという、とても天下の山陽本線とは思えないような車窓が続いた。その上、走っている電車は全て国鉄から継承したもので、車体色抜きで考えると、このあたりは2、30年前からほとんど変わっていないのではないか、とも思った。これらの点で考えると、山陽本線は日本中で失われつつある大切なものを残すとても貴重な路線である。

 私は、先ほどの爆睡が原因で、1時間遅れで13:30に広島駅に到着した。電車を降りて、途中下車した。駅前の公衆電話から広島電鉄(電車カンパニー)千田車庫運転係に電話をかけた。実は、広島電鉄650形(被爆電車)の撮影をしようと考えていたので、旅行前に広島電鉄に問い合わせたところ、千田車庫運転係に問い合わせれば、当日の運行状況を教えることができるという答えだったので電話をかけたのだった。すぐに相手方が出た。事情を話すと、650形の運行状況を調べてくれた。が・・・。

運転係の方:申し訳ございませんが、今、650形は運行していませんで、車庫の方におります。

私:あ〜、そうなのですか・・・。あの、今から車庫の見学とかはできませんよね・・・?

運転係の方:いえ、結構ですよ。何時ごろですか?

私:よろしいのですか!あの、今、広島駅にいるので、あと30分ぐらいしてからになると思います。

運転係の方:はい、大丈夫ですよ。それではよろしくお願いします。

 私は、広島電鉄の意外な対応に驚いた。直前に予約したにも関わらず、車庫の見学を許可してくれたのだ。私は嬉しくてたまらず、1日乗車券(カード方式で、乗降車毎にカードリーダに通す)を販売機で購入し、5系統広島港(宇品)行きの800形811号車に飛び乗った。

 電車は、13:43に広島駅前を発車した。15分ほどで、皆実町六丁目電停に到着し、紙屋町方面行きの電停に向かった。次の電車は、紙屋町経由西広島行き。車両は、何と広電に1両しか残っていない1150形1156号車(元神戸市電)だった

 皆実町六丁目電停から千田車庫最寄りの広電本社前電停までは5分ほどだった。広電の建物に、「忘れ物取扱所」の文字があったので、ここの窓口に申し出れば良いのか・・・と思い、建物に入った。奥から担当者の方が出てきて、先ほど電話したことと車庫見学の旨を伝えると、担当者は一旦奥に戻って何やら調べた後、「今からご案内いたします。どうぞ」と言われて、その方についていった。運転士さんがタバコをふかしている狭い乗務員休憩所を横切り、裏口から車庫に出た。「あの係りの者に申しつけてください」と案内された。係りの人は、私と同じく一般見学者と思われる2人に何やら案内していた。会話の内容から、どうやら目的は私と同じらしい。

私:650形の見学に来た者ですが・・・。

係りの方:あ、車庫の奥に停まっております。あちらのお客様について行ってください。

 そう指示されて、私は先ほどの2人についていった。3950形や元大阪市電750形の横を通って行くと、750形の後ろで静かに休む650形652号車の姿があった。

 出入り口のドアは開放されており、先に来ていた2人組は既に車内に入って、あちこち撮影したり、案内板を読んだりしていた。私も早速車内に入ってみた。運転席はきれいに掃除されており、アナログな計器に混ざってデジタル式の計器も備え付けられていた。車内の床や窓枠は木製で、座席のモケットは緑色だった。少し座ってみたが、今の電車とは何ら変わらぬ座り心地に正直驚いた。カードリーダーの設置や広告の掲示などが行われているのをみると、保存車ではなく、広電で活躍する車両の一つであるということを示しているようにも感じられた。

 ここで、650形について少し説明しておきたい。650形が誕生したのは、被爆3年前の1942年(昭和17年)で、「木南車輌」において製造された。5両が製造され、当時まだ少なかったエアブレーキ装備の鋼製ボギー車で、最新型だった。1945年(昭和20年)8月6日の朝、650形は朝から5両全車が営業運用に就いており、原爆投下時には広島駅前や江波付近、宇品付近で走っていた。5両全車が被害を受け、中でも爆心地から最も近いところを走っていた651号車は、脱線して全焼したという。その後、全車が復旧されたが、1967年(昭和42年)に655号車がトラックと衝突して大破し、廃車となった。旧型車のために速度が遅く、他の電車の妨げになっていたことから、次第に出番が少なくなってゆき、2006年(平成18年)に653、654号車が現役を引退した。残る651、652号車の2両は、現在、ラッシュ時のみの運用に限定されている。

 今度は車外に出て撮影を開始した。650形のすぐ近くには、3000形が止まっていた。

 いつの間にか先ほどの2人組は帰っていた。もしかすると、私が今度広島に来るのは、650形が引退してしまった後かもしれない・・・という気持ちがふっと出てきたので、無理を言って車庫に入れてもらったこの機会を逃すわけには行かないと、台車から車輌銘板に至るまで細かく撮影した。

 運転窓には、青い空が映っていた。原子爆弾が落ちてきたとは思えないような平和そうな空。原爆が投下されたとき、多くの市民がキラリと光る落下中の原子爆弾を目撃したという。650形も、その落ちてくる原子爆弾を見たのだろうか。

 人類滅亡までの時間を計っている「世界終末時計」がまた進められて、24時間中、残すところあと5分になったという。この時計が時を刻み始めたのは、この広島への原爆投下からだったのかもしれない。60年以上もの間、冷戦時代に一時緊張が高まったものの、一度も核戦争に至らなかったことを奇蹟と見るか、当然のことと見るかは人それぞれであろう。唯ひとつ言えることは、世界が滅亡する時が刻々と迫ってきていることである。アメリカを中心とした世界各地への派兵、北朝鮮の核開発疑惑、日本の一部の政治家が軽はずみに発言した核保有論・・・。これらは全て、時計の針を進めている歯車のひとつであると私は思う。それらの歯車を壊し、取り除かなければ、世界終末時計が止まることはない。あの愚かな大統領が君臨している限り、アメリカ軍による世界征服は止まりそうにないが、日本の核保有論者の回す歯車を壊すことは、国民が正しい認識を持つということで可能である。少しずつ、壊せるところから壊し、代わりに逆回転の歯車を入れていけば良い。それが重要だと思う。

 時間が少なくなってきたので、最後に650形の顔を3方向から撮影した。

   さっきは、もう会えないかも・・・という消極的な気持ちだったが、別れ際になると、今度こそ本線走行中の650形に乗ってみたいという気持ちに変わった。“肩身は狭いだろうけれどもがんばって・・・”。そう心の中からエールを送り、その場を離れた。

 構内に止まっている車両のうち、撮影のしやすかった元京都市電の1900形と「グリーンライナー」の愛称がある3950形を撮影した。

  

   千田車庫を出発する時間になった。千田運転係の方にお礼を言おうと、詰所に行って車庫の隅にある小さな建物の戸を開けて、「すみませーん」と言ってみたが、反応なし。テレビはつけられたままで、どうやら用があって外出しているらしい。ちょうど、若い運転士さんがいたので、私は「車庫の見学をしていた者ですが、詰所の方に(係りの方が)いらっしゃらないので、今日は車庫の見学をさせていただきありがとうございました、ということを、係りの方に伝えていただけますか。」とことづけると、その運転士さんは「分かりました。確かに伝えておきます」と約束してくれた。

 忙しい年末にも関わらず、非常に丁寧な対応をしてくれた広島電鉄職員の方々に感激しながら、私は千田車庫を後にした。直接言えなかったが、千田運転係の方には、この場を借りてお礼を言いたいと思う。係りの方がこのページを見てくれることはまずないと思うが、確実なのは、私が広島電鉄の方に対する感謝の気持ちを絶対に忘れることはないということである。

 

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