青春18きっぷで行く、さよなら餘部鉄橋惜別旅行I

明治の奇蹟、餘部鉄橋。2007年(平成19年)春から老朽化や列車のさらなる定時運行を目指すために架け替え工事が始まり、着工から1世紀近くに及ぶ歴史に幕を下ろします。私は、2006年(平成18年)春に続き、最後の訪問として、冬の餘部鉄橋に向かいました。

 広電本社前電停から、紙屋町方面行き電車に乗った。車両は、広電中最新型の5100形「グリーンムーバーマックス」。

 座席がところどころ空いていたので、私はその中のひとつに腰掛けた。座り心地は少し硬く、さっきの650形の方が良かったかも・・・と思った。しかし、加減速や走行の性能は良く、軽やかに広島の街を駆け抜けた。

 市の中心部に近づくにつれ、乗ってくる人が増えてきて、車内には立ち席が発生し始めた。途中の電停から、ニット帽のようなものを被ったおじいさんが一人乗ってきた。しかし、見回してみると空いている座席がなく、電車が発車しそうだったので、私はおじいさんの肩をポンポンと叩いて、「この席、良かったらどうぞ」と席を譲った。おじいさんは、とても嬉しそうに微笑んで、「ありがとう。ありがとう」と2度もお礼を言ってくれた。

 平和公園の近くになってくると、外国人も乗ってくるようになった。私のすぐ近くでも、日本人男性と英語で話す外国人男性がいた。すると、私のそばに座っている先ほどおじいさんの顔が少し引きつり、その外国人男性をにらみつけるように見ていた。

 私の推測に過ぎないのだが、このおじいさんも大変つらい目に遭ったのだろうと思う。原爆投下から62年になり、国際平和が叫ばれている現代。私は、その中で育ったので、国際平和がいかに重要であることは理解しているつもりであるが、一方で、頭上に前代未聞の爆弾を落とされて傷つき、60年以上も悲しみや苦しみを引きずったまま暮らしている人が、身近なところにいることを忘れてはならない。しかしながら、平和都市として世界的に有名な広島市では、被爆した建物の取り壊しが進んでいるそうであり、だんだんと被爆地としての記憶や意識が薄れつつあるのではないか、とも思う。

 ビル群に取り囲まれた紙屋町電停で、宮島口行きの5000形「グリーンムーバー」に乗り換え、原爆ドーム前電停で下車した。

 計画表では、既に広島出発の時間を過ぎているが、残金もあることだし・・・ということで、帰りは途中から新幹線を使うことにした。時間ができたので、平和公園の散策をすることにした。

 大変寒い日であったが、原爆ドームや平和公園の周りには、多くの人々が歩いていて、鐘を鳴らしたり、原爆ドームに関する説明を受けたり、写真を撮ったり、祈ったりとそれぞれの時間を過ごしていた。

   被爆した建物としては、原爆ドームが有名であるが、その原爆ドームのすぐ近くにある「平和公園内レストハウス」もその一つである。建物の前に設置してあった案内によると、被爆当時は「燃料会館」として使用されていたそうで、館内にいた三十数名のうち、戦後まで生き延びたのは、たまたま地下室にいて奇跡的に助かった1人だけであるそうだ。

   レストハウスのそばにある元安橋から、原爆ドームを見る。相生橋の上を、広電がゆっくりと通り過ぎて行く。あの日、広電も街も壊滅したが、今ではこうして大発展を遂げた。人間というものは、力を合わせれば、とてもできそうにないことをも可能にする。原爆ドームの周りに広がる広島の街を見ながらそう思った。

 世界遺産に指定されている原爆ドームのそばに立った。老朽化が進んでいるだろうし、これから先もこのままの姿で残っていられるのかどうかは分からないが、できれば、世界各国の戦争指導者にこの姿を見て欲しい。そして、戦争に巻き込まれて一番苦しむのは誰なのかを考えて欲しいと思う。

 その後、私は相生橋周辺で広電の撮影を行った。  

 時刻は15時30分頃だが、太陽は西に傾き始め、街の雰囲気も夕方らしくなってきた。時間が来てしまったので、宮島口行きの5000形に乗って、広電西広島電停に向かった。

 約15分ほどで、広電西広島電停に到着した。

 広電西広島電停から先は、鉄道線区間となるが、時間がないので、今回は乗ることができない。だが、JRにはない、ゆったりとしたイメージのある宮島線にも、一度乗ってみたいものだ。

 駅から100mほど離れたところに、JR西広島駅があった。ちなみに、愛読書の一つである「ズッコケ三人組シリーズ」(那須正幹作)に出てくる花山駅は、西広島駅のことであると私は密かに信じている。

   西広島駅の時刻表示は、今では珍しくなった回転幕方式だった。下関駅とは違い、快速列車が走ることから、停車駅案内も併記されていた。

 16:06、下関行きの快速「シティライナー」が入線した。しかし、車内は満席で、立つことになった。

 しかしながら、広島市から離れていくにつれて、乗客の数は減っていき、15分ほどで座席に座ることができた。早速時刻表をめくって、どの駅から新幹線に乗れば良いかを調べたところ、徳山―新下関駅間を利用すると、計画通りの時間になることが分かった。運賃・料金も問題なしだったので、ひとまず安心。というのも、計画通りに行かないと、佐賀駅からの終バスに間に合わないからである。車内には、夕陽が差し込んできて、何もかもが夕方の色に染められていった。

 山口県内に入ってしばらくすると、車窓に瀬戸内海が広がるようになった。幸い、座席が空いていたので、左側の座席に移動した。車内放送によると、新幹線の乗車券・特急券は車内でも発売しているということなので、車掌さんを呼び止めた。しかし、駅に到着しようとしていたので、「ちょっとすみません」と言って乗務員室に一旦戻り、電車が発車してから徳山⇒新下関間の乗車券と自由席特急券を発券してもらった。

 17:48、徳山駅で下車し、新幹線ホームへ。ホームに行く前に、新幹線改札口近くの駅弁売り場で、530円の「幕の内弁当」を購入した。販売のおばさんから、「どうもありがとう」と言われながら駅弁の包みを渡されたが、530円とは思えないずっしりとした重みがあり、結構いろいろと入っているかも・・・と期待が膨んだ。

 17:52、博多行きの「こだま731号」が3分遅れで入線した。

 しかし、年末だというのに車内には空席が目立った。今度のダイヤ改正で、また「こだま」の本数が減るのかもしれない。

   「こだま731号」は、速達列車の通過を待って、3分遅れで発車した。既に暗くなっていて、徳山の街明かりの上を走り抜けると、まもなくトンネルに突入した。トンネルに突入したとき、車内がギシギシときしんだ。車体の壁をよく見てみると、トンネルに出入りするたびに、外側に引っ張られるようになったり、内側に戻ったりを繰り返した。当サイトの「テツビアの泉」でも書いているが、これはおそらくトンネルと車内の気圧に差があることが原因で起こる現象と思われる。

   新山口駅では、通過列車待ち合わせのために数分間停車したが、その通過列車も遅れていたので、「こだま」の遅れもさらにひどくなった。「こだま」は、新山口駅を約6分遅れで発車した。厚狭駅に停まると、その次は新下関駅である。「いい日旅立ち」のメロディが流れて間もなく、新下関駅に到着した。遅れは約6分だった。

   新幹線ホームから山陽本線ホームへの乗り換えは非常に面倒で、動く歩道を使ったり、階段を昇ったりと大変だった。在来線駅舎で青春18きっぷに途中下車印を押してもらって一旦途中下車したが、時間が無かったのですぐにホームに戻った。

 次の下関行きは117系福知山色だった。昼間に乗った「サンライナー」同様、乗り心地は非常に良かったが、幡生に停まると次は終点下関駅。短い乗車時間で415系(2枚中下の写真)に乗り換えとなった。 

   門司駅には、19:04に到着した。2日ぶりの九州である。ちょうど別のホームでは、寝台特急「はやぶさ」と「富士」の併結作業が行われていた。本当は見たかったのであるが、1分後に荒尾行きの813系が入線。やむを得ず門司駅を離れた。

 

 年末であるためか、乗客の数は少なく、ためらうことなく駅弁を食べることができた。

 駅弁には、これといって地元の食材は使っていなかったようであるが、期待通りの量で、これで530円は安い!と食べながら思った。安ければ良いという物ではないが、味も悪くなく、久々にお気に入りの駅弁に出会うことができた。

 20:53、電車は鳥栖駅に到着した。鳥栖駅では、特急「みどり27号」に乗車。しかし、快速車内とは逆に、車内は満席で、狭いデッキで立つことになった。15分の乗車で、佐賀駅に到着した。

 最終的には、計画通りに到着できて良かった。改札口で、鳥栖⇒佐賀間の乗車券代と自由席特急券代を払って、改札を出た。ほとんどの路線が21時台で運行を終了する佐賀。ある路線の最終バスに私は乗った。

 今までに一番「旅らしい旅」だったと我ながら思う、今回の「青春18きっぷで行く、さよなら餘部鉄橋惜別旅行」。別れもあったけれども、出会いや発見、人々の優しさや強さというものを感じることができ、大変意味のある旅だった。

 終わってみれば、青春18きっぷは、いろいろな駅の途中下車印が押され、カラフルに変身していた。駅名の入った途中下車印を見るたびに、押してくれた駅員さんの顔や駅の様子が浮かび上がってくる。

 一番のメインだった餘部鉄橋訪問。運転見合わせで、一時はどうなるかと思ったが、最終的には行くことができて本当に良かった。もう見ることはないと思うが、遠い九州から、改めてお疲れ様、と言いたい。

 「ムーンライト九州」で“たまたま”隣になった男性、伯備線車内で“たまたま”相席になったおばさん、餘部鉄橋で「寒い寒い」と言いながら、“たまたま”一緒に撮影できた3人組・・・。他にも、たくさんの“たまたま”出会った人々がいる。皆、この旅行記の大切な登場人物である。彼らがいなければ、この旅行記は成立しなかった。名もない出演者たちに乾杯!

 実に制作開始から2週間かかって完成したこの旅行記。私も大変だったが、読みづらい文章を、最後まで読んでいただいた方々もまた大変だったと思う。読んでいただいた方全員に敬意を表し、この旅行記を終わろうと思う。それでは・・・。

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