青春18きっぷで行く、さよなら餘部鉄橋惜別旅行G

明治の奇蹟、餘部鉄橋。2007年(平成19年)春から老朽化や列車のさらなる定時運行を目指すために架け替え工事が始まり、着工から1世紀近くに及ぶ歴史に幕を下ろします。私は、2006年(平成18年)春に続き、最後の訪問として、冬の餘部鉄橋に向かいました。

2006年(平成18年)12月30日

 日付が変わった。0:01、大阪行き最終電車の207系がメロディーとともに入線した。

 大阪行き最終電車で、しかも各駅停車なので、あっという間にロングシートが6割ほど埋まってしまった。日付が変わっても、これだけの需要があるとは・・・。九州では、一部列車を除いてとても考えられないことである。ちなみに、車内ドア横の広告は、全て「浅草・ふくまる旅館」(TBS系)のもので、紙面いっぱいに満面の笑顔を浮かべる西田敏行さんがずらりと並ぶ車内には、何とも不思議な雰囲気が漂っていた。

 電車は、0:03に西明石駅を発車した。途中の駅から乗ってくる人もおり、乗客の数はしばらく減らなかった。それでも、神戸に近づいてくると、降りる人の方が多くなっていった。0:30、電車は神戸駅に到着した。私は、ここから「ムーンライト松山」に乗る予定なので、ここで下車した。「12.30」に日付が変えられたばかりの途中下車印を押してもらい、神戸駅前に出て駅舎を撮影した。この駅舎は、1934年(昭和9年)に建て替えられたもので、皇族の方々のための貴賓室を備えていた。1995年(平成7年)の阪神淡路大震災では、貴賓室を含めて、被害が出たものの、駅舎自体の倒壊は免れた。現在では、貴賓室も修復されて、現存している。ちなみに、駅舎入り口のところに設置されている時計は、1934年(昭和9年)当時から時を刻み続けているという。

 駅構内もなかなかレトロな雰囲気があり、柱に至るまで細かい装飾が施されていた。

 電車特定区間内なので、青春18きっぷでは昨日の日付で終電車まで改札に入ることができるが、これから夜行に乗るため、改札口で「12月30日」の判をもらおうと、改札口に向かったが、女性客と駅員さんが何やらもめており、列車が到着しそうだったので、仕方なくホームに向かった。

 「ムーンライト松山」は「ムーンライト高知」と途中まで併結して走る上に3両ずつなので、間違えて乗らないようにしなくては。幸い、駅の放送で「ムーンライト松山」の乗車位置案内が行われたため、戸惑うことはなかった。0:39発の321系西明石行きの発車と同時に、EF65形に牽引された快速「ムーンライト松山・高知」が入線した。編成は両方とも共通で、それぞれ14系普通車2両と12系グリーン車1両という内容だった。往路で利用した快速「ムーンライト九州」とは違い、車体は昔ながらの青で、個人的にはこちらの方が旅情たっぷりに感じられた。

 早速車内に入った。ところが、私の指定していた5号車通路側の座席には、窓際の先客が足を載せて占拠しており、おまけに既に寝ていた。「もしもし」と起こしてみたが、爆睡していて全く起きない。仕方ないので、近くの空いた席に座った。

 おっと、そういえばなぜ私が「ムーンライト松山」に乗ることになったかを説明していなかった。「四国に用があるんじゃないの?」と思っていた人もいると思うが、実は、下りの「ムーンライト九州」が満席だったため、やむを得ずこちらに乗ったのである。「九州」が取れていたら、明朝は山口県の小野田―厚狭間で、寝台特急「はやぶさ・富士」の撮影を行う予定だったが、取れないのでは仕方がない。なので、明日は最初の停車駅である新居浜(にいはま)駅に着いたら、すぐに反対方向の列車に乗ることにしている。

 さて、先ほどの先客であるが、車掌に申告しようかと思ったが、自ら起きてくれたので、そのタイミングを見計らって「ちょっとすみません」と少し怒りの気持ちを込めて、通路側の座席を空けてもらった。参考書をたくさん持っていたので、受験生なのか、とも思った。なるほど、勉強の疲れか・・・と少し納得したが、夜行列車ならば、夜中に他のお客さんが乗ってくることも十分に有り得るので、隣の座席に足を載せたり、荷物を置いたりしないで欲しいものである。

 私は、西明石発車後に寝てしまった。次に起きたのは、四国の多度津駅。ここで「松山」と「高知」が切り離すのだが、客扱いはないので、ホームに出ることができない。なので、もう一度寝て、起きたのは5:40。新居浜到着が5:47なので、ある意味でギリギリの時間だった。

 新居浜駅に着いた。列車は、行き違いのために5分ほど停車する。早速、編成の撮影のために最も後ろの12系客車(オロ12−5)を撮影した。12系客車は、写真でしか見たことのない旧型客車のような感じで驚いてしまった。

 しかし、側面の形式表示は悲惨なことに・・・。「お前は走ってさえいりゃいいんだよ」というJR四国の方針なのかもしれないが、ボロボロの車体があまりにもかわいそうだった。

 機関車のそばに向かった。牽引はDE10形1138号機で、後ろの12系とあわせたら、何だか一昔前にタイムスリップをしたような感じである。

 撮影を終えると、私は快速「サンポート」高松行きに乗るために急いで1番乗り場へ。まもなく、121系4両編成が入線した。ドアは半自動ドアで、手で開けるようになっていた。車内はガラガラで、4両目は車掌以外誰も乗っていなかった。優越感にひたろうと、私は4両目に乗った。

 電車は5:52に新居浜駅を発車した。車窓はまだ真っ暗だったので、「松山」車内で寝られなかった分、この車内で寝ることにした。座席はやや硬かったが、疲れていたのですぐに寝てしまった。起きたのは7時過ぎ。それでも、車内は何人かしか乗っていなかった。だんだん明るくなってきて、7:30前に日の出を迎えた。

 その後、また寝てしまい、起きたのは7:42。駅名表示板を見ると、「坂出」。「うわっ!坂出!?」と思い、急いで荷物を持って手でドアを開けて降りた。まもなく、電車は坂出駅を発車した。急いで降りたものの幸い忘れ物はしていなかった。だが、硬めの座席と変な寝方をしていたので、首が少し痛かった。

 坂出駅で途中下車し、途中下車印と今日の日付印を押してもらった。坂出駅構内の売店で、朝食とお土産用の讃岐うどんを買った。時間が無いので、急いで駅舎を撮影し、ホームに戻った。

 次に乗る電車は、快速「マリンライナー」岡山行き。「JR」のマークが白だったので、JR西日本所属の223系5000番台である。

これから瀬戸大橋を渡るので、前方風景を楽しもうと立つことにした。電車は、坂出駅を8時ちょうどに発車し、街の上をどんどん加速していった。

 間もなく、瀬戸大橋や合流する高速道路が見えてきた。

 高速道路と合流すると、瀬戸大橋に入った。

 しかし、運転席からは、海の様子が良く見えなかったので、空いている座席に座った。

 海は朝日に照らされ、とてもきれいだったが、雑誌やガイドブックの評判の割には意外と橋の一部などの障害物が多く、少しがっかりした。

時折、島の上を走った。小さな島だったが、高速道路の料金所があり、車が何台か出入りしていた。岡山や香川に通勤したり、帰省したりする人の車なのだろうか。

 本州側に上陸し、トンネルを抜けると児島駅に到着した。私はここで電車を降りた。ちょうど、反対方向へ向かう「マリンライナー」が発車した。こちらの「JR」のマークは水色で、JR四国の5000系だということが分かった。しかし、私が今まで乗ってきたJR西日本所属の223系5000番台とはほとんど変わらない。

 児島駅で途中下車し、駅舎を撮影した。

 売店で朝食を追加購入して、ホームに戻った。既に岡山行きの115系各駅停車が入線していた。

ドア横のボタンを押して、車内に入った。車内は、3両も繋ぐ必要があるのか?と思えるくらいに閑散としていた。電車は8:23に児島駅を発車した。途中駅で乗ってくるお客さんがいたので、始発時に比べると車内は賑やかになったが、混雑するというほどにならないまま、岡山駅に到着した。

 岡山駅では、吉備線制覇のために、同線のキハ47形に乗った。

 列車は9:02に岡山駅を発車した。10分もすれば、列車はのどかな田園風景の中を走るようになった。

 今後の予定としては、吉備線で総社駅まで行き、倉敷駅まで南下して山陽本線下り列車に乗り換えることにしている。ところが、また睡魔が襲ってきて、いつのまにか寝てしまった。起きたとき、列車は反対方向に動いていた。「吉備線にスイッチバックの駅とかあったっけ・・・」と思っていると、車内放送で「次は東総社です」と流れた。「東総社?」と疑問に思っていると、嫌な予感がしてきた。もしかして、終点から折り返した列車に乗っているのでは・・・。その嫌な予感は、見事に当たった。結果として、また岡山駅に戻ってきてしまったのである。次の山陽本線下り列車までは時間があるし・・・ということで、駅舎や構内に停まっている車両を撮影した。しかしながら、JR四国のアンパンマン列車の撮影には、かなりの勇気が要った。

 

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