青春18きっぷで行く、さよなら餘部鉄橋惜別旅行E

明治の奇蹟、餘部鉄橋。2007年(平成19年)春から老朽化や列車のさらなる定時運行を目指すために架け替え工事が始まり、着工から1世紀近くに及ぶ歴史に幕を下ろします。私は、2006年(平成18年)春に続き、最後の訪問として、冬の餘部鉄橋に向かいました。

  しばらくすると、風、雪ともにやみ、警告灯も消えた。15時過ぎ、再び駅の自動放送が流れた。もしかすると、また間違いか・・・とも思ったが、いやいや今度こそという思いで、列車を待った。中学生の話では、来るとすれば、キハ181系特急「はまかぜ」だそうで、余計に来て欲しかった。だが、1、2分経っても列車は来なかった。やはりダメか・・・と諦めかけたその時、反対側の山にあるトンネルが、パァーッと明るくなった。私は「来た!」と叫んだ。それを聞いたほかの人々も、いっせいにカメラを鉄橋の方向に向けた。やって来たのは、中学生の予想通り、キハ181系特急「はまかぜ」だった。

 運行が再開されたとは言え、海は相変わらずの大シケだった。しかし、太陽が出ると白い波が日光に照らされ、目の前で、力強くはあるものの、とても美しい光景が繰り広げられた。

 15時台には、上下列車ともに運行が再開され、今まで運転を見合わせていた列車が次々に餘部鉄橋を通過した。15:40頃、先ほど浜坂駅に停まっていたキハ47形2連が通過した。

 それから約6分後、今度は浜坂行きのキハ47形2連が鉄橋を渡った。この写真が、今回の旅行の中でもお気に入りの一枚となった。

 中学生曰く、「これが、本日の浜坂方面行き始発列車」。なるほど、今朝から運行されていなかったということは、特急の停まらない餘部駅にとっては、確かに浜坂行き始発列車である。朝から張り込んでいた人ならではの発言に、私は「なるほど〜」と言いながら笑ってしまった。

 列車の運行再開に伴って、撮影にやって来る人が増えてきた。

 私がその中学生や高校生と話していると、一人のおばさんが、「ごめん、これで撮ってくれへん?」とカメラを差し出してきた。一番良いポジションにいた私が撮影することになった。「よろしいですか〜」と言いながら、返答を待ってパチリ。そのおばさんは「おおきに。私が餘部に来たという証拠があればそれで十分です」と言って、駅の方に戻っていった。

 その直後、中学生にハプニングが発生した。何とデジカメの電池がなくなったそうで、電池は鉄橋下の駐車場に停めている車の中にあるという。私は予備電池を持ってきていたのだが、あいにく私のデジカメも電池切れマークが表示されていたので、あげることができず、中学生は電池を取りに山を下り、わずか5分で帰ってきた。

 夕方に差し掛かり、だんだん寒くなってきた。私は、持ってきていた使い捨てカイロを2つポケットに入れて、手を温めた。手が震えて写真がぶれては元も子もないからである。一方、高校生の方は、使い捨てカイロを持っていたが、中学生の方は持っておらず、とても寒そうにしていた。なので、

私:カイロを差し上げましょうか。

とカイロを差し出した。

中学生:えっ?いいのですか。ありがとうございます。じゃあ、お礼と言ってはなんですが、これを・・・。

 そう言って、中学生は、先ほど車に取りに行ったときの余りと思われるオキシライド電池を4本もくれた。この電池は、強力で長持ちするので、値段が他の単三電池よりもやや高めである。

私:(電池を)こんなにもらってもいいのですか?カイロを1枚しかあげていないのに・・・。

中学生:いいんですよ。カイロがなければ死んでしまいますから。

 「死んでしまいますから」は、オーバーな表現だと思ったが、今考えると、確かに死にそうなくらい寒かった。カイロ1枚を握っているかいないかでは、結構な差があったのだろう。それにしても、電池はデジカメを使う以上、これから先も必要になるので、大変ありがたかった。

   16時を過ぎ、再び風と雪が強まった。

 まもなく、餘部駅に豊岡行きが到着した。ところが、警告灯は点灯していなかった。風、雪ともにますます強くなってくる。

私:まさか、こんな風が強いのに行くのか!?

中学生:キハだから、重量があるんで大丈夫だと思うんだけど、怖いなぁ。落ちたら大変だ。

という、私たちの心配を無視するかのように、列車は餘部駅を発車した。列車は、ごうごうと猛吹雪の吹き抜ける中、一気に加速して鉄橋を渡り、無事に向かい側のトンネルに入っていった。それを見届けると、私たちは胸をなでおろした。

私:乗っていた人たちは、生きた心地がしなかったでしょうね。

中学生:運転士は、本当に度胸があると思うよ。こういうときは、余計に怖いだろう・・・。

 確かにその通りだと思う。綱渡りの綱のように細い餘部鉄橋は、極端に言えば、脱線すると落ちるしかない。高所恐怖症の人ではまず無理だろう。当然ながら、失敗は許されない。その上、乗客を安全に運ぶという重大な使命のある運転士へのプレッシャーは、相次いで明るみになるオーバーランや居眠りで、ますます増大している。技術や資格をいくら持っていても、そうした恐怖やプレッシャーに打ち勝つ力がなければ、運転士になるのはまず無理であろう。私は、列車の運転士は、本当にすごい人たちなのだと改めて思った。

 16:37、浜坂行きのキハ181系「はまかぜ」がやって来た。

   だが、だいぶ暗くなってきて、一段と寒くなってきたことから、帰る人が続出した。中学生たち3人組のうち、30代男性が先に下山し、その後しばらくして、残りの2人も「またどこかで会いましょう」と言って、帰っていった。もう二度と会えないかも知れないが、私は彼らと会って、一緒に話をし、電池をもらったという貴重な経験を忘れるつもりはない。いや、忘れたくない。だから、私は旅行記に彼らと会ったことを詳しくを書く。そして、彼らもまた、こうしてこの旅行記の重要な登場人物になった。

 暗くならないうちに、私はいったん駅のホームで撮影を行った。

 

 その後、私は再び撮影ポイントに戻り、キハ181系「はまかぜ」を撮影した。撮影者は私を入れてわずか2人だけだった。これが、この撮影ポイント、いわゆる「お立ち台」で撮影した最後の写真になった。

 

 私は、荷物の確認をしてから、お立ち台を出発した。餘部駅にちょうど列車が着いたところで、何人かの人が降りていた。   

   計画では、18:45発豊岡行きの列車に乗ろうと思っていたが、思った以上に寒いので、1時間早い列車で餘部を出発することにした。その前に、もう一度下から鉄橋を見上げてみようと思い、滑りやすい坂道を下った。集落の家々では、既に夕食の準備が始まっていた。その家々の隙間から、鉄橋を見上げてみた。

   私は、昼間にバスを降りたところのすぐ近くにあった慰霊碑の前に向かい、手を合わせた。鉄橋を走る列車が転落し、列車の車掌や直下にあったカニ工場の従業員に死傷者が出るという悲劇が起こった餘部。住民や遺族の中には、餘部鉄橋に恨みを持つ人も少なくないと思う。だが、鉄橋が取り壊されてしまっては、そうした悲劇が十分に語り継がれないまま、その事実自体が風化してしまう可能性が非常に高い。鉄橋を恨む人がいると推測される上、よそから来た私が何が何でも鉄橋を残そうと言う資格はないが、このままJR西日本や鳥取・兵庫両県の同意のままに鉄橋を取り壊すということには、抵抗がある。

 個人的に、一番良いのは今の鉄橋を残してもらいたいが、それができないのであれば、せめてコンクリート橋にすることだけはやめてほしい。できれば、今の鉄橋ではできなかった防災対策を施し、再び鉄橋を建設して欲しいと思う。鉄橋を見て感動した人はいるけれども、コンクリート橋を見て感動した人はいないだろう。柱が一本でもなければ、鉄橋は成り立たない。全て支えあってこそ鉄橋があり、そこに造形美というものが生まれる。それが、壮大であればあるほど、人は想像をより巡らす。それは、どこか人間社会にも共通する部分があるからではないだろうか。

 乗るだけが鉄道の魅力ではない。見て感じて楽しむ、ということも、鉄道の魅力ではないだろうか。少なくとも、今の餘部鉄橋の架け替え計画では、そうした楽しみを効率化のもとに潰そうとしているように見えてならない。

 鉄橋を支える頑丈な柱。工事が始まっても、当分は残るだろうが、工事完成とともにその役目を終える。この鉄橋を組み立て、ボルトを一本一本締めた明治の先人たちは、何を願ったのだろうか。  

   私は、真っ暗な坂道を上り、駅のホームに立った。あたりは既に真っ暗で、ホームには私と男性1人以外誰もいなかった。おそらく浜坂駅からだと思うが、次の豊岡行きは十数分遅れるという放送が行われた。もっとも、もともとダイヤが乱れているので、遅れているという感覚はまったくなかったのであるが。

 餘部駅の待合室をのぞいてみた。簡素な造りではあったが、座席には座布団が敷かれていた。地元の方の親切なのだろうか。

 

 まもなく、豊岡行きの気動車が入線した。ついに、餘部鉄橋と別れるときがやってきた。

 列車は、わずかの停車時間で餘部駅を発車し、鉄橋の上に飛び出した。ガタタン、ゴトトン、ガタタン、ゴトトン。餘部鉄橋ならではの音をあたりに響かせながら、列車は鉄橋を渡ってゆく。眼下には、餘部の集落や昼間歩いた国道を走る車のライトが豆粒のように見えた。さよなら、餘部鉄橋。まもなく、列車は鉄橋を渡り終え、トンネルに突入した。もう二度と、完全な姿の餘部鉄橋を見ることはないだろう。

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