青春18きっぷで行く、さよなら餘部鉄橋惜別旅行D

明治の奇蹟、餘部鉄橋。2007年(平成19年)春から老朽化や列車のさらなる定時運行を目指すために架け替え工事が始まり、着工から1世紀近くに及ぶ歴史に幕を下ろします。私は、2006年(平成18年)春に続き、最後の訪問として、冬の餘部鉄橋に向かいました。

 こうなれば、ベストを尽くすしかない。早速、私は途中下車して情報収集を開始した。駅の待合室や改札の前には、多くの人々が不安そうな顔をして駅員に質問したり、情報を交換し合ったりしていた。窓口のそばには、運行見合わせを伝えるホワイトボードが設置されていた。

 タクシーで行こうか・・・とも思ったが、各名所までの料金表を見ると、餘部鉄橋までは3000円を超える料金になることが分かったので断念。路線バスは、餘部鉄橋まで行く路線自体が存在しなかった。

 駅構内や駅前などで情報収集をした結果(というよりも、言い方は悪いが、周囲で話している他の人や駅員さんの話を盗み聞きした)、現在、運転見合わせ区間となっている浜坂―香住間で代行バスを運転しているということが判明した。ということは、餘部鉄橋にも行けるのではないか。私は駅員さんに餘部駅付近で停車するかどうかを質問したところ、

駅員さん:はい、停まります。その際は、バスの運転士に申し付けて下さい。

私:ピストン輸送を行っているのですか?

駅員さん:はい。現在、当駅と香住駅の間でバスを2台出してピストン輸送を行っとりまして・・・。

私:次のバスは何時でしょうか・・・。

駅員さん:13:20頃の発車を予定しておりますが、交通事情で遅れることもあります。

私:分かりました。ありがとうございました。

 少なくとも、餘部鉄橋に行けるのは間違いなさそうである。バスが来るまでは、待合室の餘部鉄橋に関する張り紙を見て時間を潰した。十数分経った頃、JR西日本の職員が「香住行きのバスが到着しましたので、お急ぎください。」と駅で待っている多くの人に案内した。駅前の駐車場には、「全但バス」の観光バスが止まっていた。

 他の乗客に続いて、私も早速バスに乗った。もちろん、JRのきっぷで乗ることができた。新型車らしく、座席の座り心地はとても良かった。発車するのを待っていると、先ほどのJR西日本の職員が「居組や餘部などの途中駅で下車されるお客様はいらっしゃいますか。」と尋ねてきたので、私は手を挙げた。

JR職員:どちらまでですか。

私:餘部です。

 私の2つ前に座っていた男性も手を挙げた。重たそうな荷物を持っているのを見ると、目的は私と同じらしい。

JR職員:よろしいですね。では、(運転士さんに向かって)餘部のみの停車でお願いします。

バスの運転士:餘部と言うと、鉄橋の下でよろしいですね。はい、了解いたしました。

 バスは、不安な顔を浮かべたままの乗客を乗せて、13:20過ぎに浜坂駅を出発した。

 まもなく市街地が途切れ、雪野原の農道を走るようになった。山陰本線を渡って、国道に出た。国道をしばらく行くと、山の中に入った。また雪が降り始めた。居組駅付近を走行中に、赤いキハ47形4連が車窓から見られたが、車内灯が消されたまま、じっと雪に耐えていた。

  バスは、急カーブの連続する坂道を、ガードレールすれすれに上って行く。一歩間違えば、斜面から転落という場所もあり、ひやひやした。こうした道を大型バスで運転できる運転士さんは、相当なベテランなのだろうと思った。

 トンネルを抜けると、今度は下り坂になった。

  13:40、進行方向右手に赤い物体が見えた。吹雪でぼんやりとしか見えなかったが、間違いなく餘部鉄橋だった。それに気づいた乗客たちが「餘部鉄橋だ!」と騒ぎ始めたが、中には無口なままの人もいた。無理もない。この鉄橋のせいで、旅程がめちゃくちゃになった人もいるはずだ。そうした人のことを考えると、何とも複雑な気持ちである。

 

餘部鉄橋を少し過ぎた場所で、私は男性に続いてバスを降りた。降りた瞬間、すごい風と雪が私の体を吹き飛ばそうとした。これでは、鉄橋に列車が走ることなどまず不可能である。それでも、私は暴風雪に逆らって海を目指した。

 暴風と弾丸のように飛んでくる雪に耐えながら立つ餘部鉄橋。約9ヶ月ぶりの“再会”である。前回と変わらぬその堂々とした姿に、私は息を飲んだ。

  

 橋のすぐ下には、慰霊碑が建てられていた。おそらく、餘部鉄橋転落事故のものだろう。そう言えば、事故が発生したのは、12月28日だった。つまり、この日の1日前である。こんな暴風の吹き荒れる中、列車は餘部鉄橋を渡ったのだろうか。

 

 餘部鉄橋の下をくぐり、国道の歩道を雪に打たれながら進む。波がどんどん押し寄せてきて、岩や防波堤にぶつかる度に「ザパァーン」というものすごい音を立てて崩れてゆく。勢いの余った波は防波堤を越え、国道を歩く私にも海水を時折降りかけてきた。

 私は、予め3箇所ほどの撮影ポイントを選んでいたので、まず最初に、海側にある背の低い山に向かった。先ほど、一緒にバスを降りた男性も、目をつけた場所が同じのようだった。ところが、舗装された坂道を300mほど上っても、意外と木や電柱などの障害物が多かったため、鉄橋全体を撮ろうとするには、あまり良い場所とは言えなかった。列車が渡るところだけを拡大して撮るにはちょうど良いかもしれないが、今は運転見合わせ中なのでそれもできない。

 この山のすぐ下の岩場や船の留置場も鉄橋を真横から撮影できることから人気があるものの、今日は大波に洗われている。これで岩場や船の留置場に行くのは、誰がどう考えても自殺行為である。当然、私の前を歩いていた先ほどの男性も諦めていた。やはり海のそばにある2箇所のポイントにも行こうとしたが、ここから見る限り、そこへ行くための道でさえも、白い波がザプーンと襲っていた。なので、そこも断念。仕方なく、餘部駅近くの最も有名な撮影ポイントに行くことにした。

 次第に風も雪も弱まってきて、私が餘部集落の中を歩く頃には、太陽が雲の切れ間から顔をのぞかせた。

 集落から餘部駅に行くには、急な坂を上らなければならない。ところどころ雪が積もっていて、非常にすべりやすく、手すりにつかまって何とか前進できた。坂道の途中で、1枚撮影。改めて鉄橋の美しさに感嘆した。

 ひぃひぃ言いながらさらに坂を上ってゆく。空は青空が広がるようになったが、海は相変わらず大シケだ。それは、鉄橋を渡る列車の音にも似ており、時々そのような音がしては「列車が来たか!」と思って上を向いたが、やはり波の音であった。ところが、14:12頃、波の音に混じって、いきなり「ブロロロロ・・・」という、どこかで聞いたことのある音が耳に入ってきた。「もしや!」と思った次の瞬間、赤い気動車が空中に飛び出してきたのである!私は首から提げていた一眼レフを手に取り、鉄橋を渡る4両のキハを撮影した。おそらく、先ほどのバスの車内から見た、居組駅停車中のキハ47形4連なのだろう。乗客は乗っていないはずだから、今の列車は試運転か回送なのだろうとすぐに予想がついた。

 ということは、特急「はまかぜ」の運行再開も近い!そう思って、私はさらに急いだ。運転見合わせ中だったためか、餘部駅近くの撮影ポイントには、大阪から1人で来たという小学5年生と中年の男性しかいなかった。その後まもなく、先ほどの気動車の走行を目撃した人々が何人かやってきた。しかしながら、旅客列車が運行されておらず、公共交通機関で餘部入りできるのが代行バスのみだったためか、集まってきたのは最大でも10人ほどだった。

 近くにいた中学生くらいの少年は、「ちくしょー!惜しかった!!」と嘆いていた。どうやら、さきほどの列車を撮影し損ねたらしい。彼は、朝からここにいるらしく、さっきの列車が本日最初の餘部鉄橋通過列車だった、と言った。聞けば、彼は、友人の高校生と30代くらいの男性といっしょに、それぞれ神奈川・東京・千葉から餘部を訪れていて、「ムーンライトながら」の指定を取り損ねたために、昨日の東海道本線を昼間下ってきたそうで、夜にレンタカーでここに到着し、その車内で一泊したという。餘部鉄橋に撮影目的で来たのは、これが初めてであるそうだ。

 そういう話をしていると、駅の自動放送から「まもなく列車が通過します」と流れた。もしかして、特急「はまかぜ」が来るのでは・・・と、皆期待したが、どうやら間違いか試験放送だったらしく、列車は来なかった。

 彼らとしばらく談笑しているうちに、再び雲行きが怪しくなってきた。中学生と一緒に来ていた高校生が、「警告灯がついた」と言って階段を上ってきた。警告灯とは、餘部鉄橋の風速が基準を上回った場合、列車を止めるために鉄橋のそばに取り付けられているもので、その点灯は、撮影ポイントからも確認できた(中央の赤く光っている部分)。

 まもなく、暴風とともに大雪が再び餘部を襲った。他の人々は、「寒い、寒い」と言いながら、すぐ下の餘部駅の待合室に避難したが、私は動きたくなかったのでその場に残った。海には、見たこともないような波が発生しており、先ほど私が歩いた国道に容赦なく水しぶきを浴びせていた。

 

Eへ 

旅行記&特集へ

トップへ