青春18きっぷで行く、さよなら餘部鉄橋惜別旅行A

明治の奇蹟、餘部鉄橋。2007年(平成19年)春から老朽化や列車のさらなる定時運行を目指すために架け替え工事が始まり、着工から1世紀近くに及ぶ歴史に幕を下ろします。私は、2006年(平成18年)春に続き、最後の訪問として、冬の餘部鉄橋に向かいました。

 ドアが開くと、早速ホームに下りた。海に近いので風が強かったが、ここでしか見られないことなので、我慢して撮影を行った。儀式を見ようと、次第に人が増えてきた。まもなく、機関車がゆっくりと客車から離れていった。

 その間、集まった人たちは、カメラで客車を撮影していた。

 やがて、門司港方面からEF81形411号機が近づいてきた。

 どんどん近づいてくる機関車を、皆、緊張して見守る。

 ガチャン、という音を立てて、機関車の連結器と客車の連結器が軽くぶつかった。

 作業員さんが線路に下りて、各種作業を行う。しかし、寒いためか、だんだんと自分の座席に戻る人が増えてきたので、私も車内に入った。しかし、5号車には戻らず、先頭車のデッキで待ち構えることにした。ちょうど窓からは、EF81形411号機のナンバープレートが目の前に見ることができた。

 列車は定刻に門司駅を発車し、関門トンネルに突入。関門海峡の真下をくぐりぬけると、まもなく下関駅である。下関駅では、さっきと反対側のドアが開いた。雪がひらひらと舞っていて、風が強く吹くたびに、ひゅるるんと目の前を吹き飛んでゆく。まもなく、機関車が切り離され、闇の中に消えていった。

 少し離れた場所から、こちらを照らす者がいた。これから終点まで引っ張るEF65形だった。

 EF65形は、蛇行しながらこちらに向かってくる。客車の手前で一旦停止した。

 さっきと同じ緊張があたりに漂う。

 そして、やはりガチャン、と音を立てて、連結の第一段階が終了し、作業員さんによる第二段階の作業に移行した。

 ちなみに、下関駅の時刻表示は、終着駅部分が応急処置のままだった。

 その後、私はお茶を買って、最後尾に移動した。最後尾には展望室があるはず・・・と思ったが、今回は連結されていなかった。しかし、せっかく最後尾まで来たのに、成果なしでは戻れない。なので、最後尾から編成全体を撮影した。

 5号車に戻った。ところが、通路側の大学生がいなかった。私が「JNR」(国鉄)のロゴ入り灰皿を撮影していたとき、彼は息を切らせながら帰ってきた。彼は電池を買いに行ったらしく、駅構内の売店が既に閉まっていたため、駅の外にあるコンビニまで走って行ってきたと言う。ちなみに、灰皿の写真はこちら。禁煙車なので、中身はほとんど汚れていなかった。

 列車は下関駅を定刻に発車した。車内は一気にお休みモードになり、既に休んでいる人もいた。時刻は既に22:00を回っている。山口県内のどこかの駅に停まった時を最後に、車内放送が中断された。列車は、深夜の山陽本線を東へ東へと駆け抜けて行く。

 列車が徳山駅に停車しようとしていた時だった。線路がいつの間にか白くなっていたのである。よく見ると、何と雪が積もっていたのだ。

私:雪が・・・積もってます・・・。

 山陽の山口県で雪が積もるとは、明日の山陰地区は一体どれくらい雪が積もっているのだろうか。私の発言に、隣の男性も、

男性:え゛!?うわ〜・・・。

と絶句していた。男性によると、明日の10時に、名古屋で待ち合わせをしている人がいるらしく、遅れたら大変なことになると、不安そうな顔をさらに不安な顔にゆがめた。彼は、ポケットから携帯電話を取り出し、メールを打ち始めた。

2006年(平成18年)12月29日

 列車は、吹雪く山陽本線をそれに負けじと突き進んでゆく。沿線のガソリンスタンドの水銀灯に雪が照らされ、それはそれはすごい降り方だった。隣の男性は、揺れなのか、明日のことが心配なのか、読書したり、メールを打ったり、音楽を聴いたりと、全く寝る様子がなかった。その一方で、私は大雪や暴風で列車が動かなくなることは予測できたので、安心してというよりも諦めて、1時間寝ては起きて、また寝て30分して起きて・・・という不規則な睡眠を取った。これには、明日の朝の岡山到着が4:08なので、爆睡して寝過ごせば大変なことになるという重大な理由があるからだ。

 広島県内に入ると、雪はやみ、積もってもいなかった。広島到着時刻を見る限り、ほぼ定刻のようである。

 その後、私は再び寝たり起きたりを繰り返し、そろそろかな、と思った頃に目を開けた。電波腕時計の表示を見ると、「3:40」だった。ねぼすけの私にしては、ちょうど良い時間に起きたものである。そして、いつのまにか寝ていた隣の男性も、なぜかほぼ同時に起きた。

 列車が減速を始めた。岡山駅に着くのだ。私は、忘れ物がないか確認し、荷物を通路側に出し、男性に「すみません・・・、もう降りますので」と言って、一旦通路側に出てもらった。そして、男性に「お気をつけて」と、今まで一緒に旅ができたことに対する感謝の気持ちを込めて言い、男性のこれからの旅の安全を祈りつつ、列車を降りた。  

 岡山駅で降りた乗客は合わせて10人ほどいたが、列車が発車した後のホームは、キリッと冷たい風が吹くだけだった。私も5時過ぎまではホームに用がないので、一旦岡山駅の待合室に避難した。

 岡山駅はまだ改札前だったが、営業時間並みに電灯がつけられていた。

 私は、「これほどにがらーんとした都市の駅舎を撮影できるのは、この機会にしかない!」と、自由通路や駅前、無人の地下商店街など、あらゆるところを撮影した。

   しかし、やはり寒い・・・。なので、一通り撮影すると、駅舎の中に戻った。だが、ベンチはどこも埋まっていて、座れそうになかったので、寒いけれども電車を見ることができるホームに下りた。

 自販機で買った缶入りのコーンスープを飲んでいると、105系回送電車が入ってきた。

 4:55頃、先ほど「ムーンライト九州」を降りたホームに向かった。まもなく、京都行きの寝台特急「なは・あかつき」が到着するからである。編成が長いから、ホームの先端まで行かないと無理だろうと思ってホームを歩いてゆくと、柱のそばに、忘年会シーズンの駅にはよく見かける、どろどろしたものが広がっていた。まったく、これだから泥酔サラリーマンは・・・と思うが、やはり酒の席では、どうしても吐くまでに酒を飲んでしまうんだろうな・・・と、少し同情した。

 ふと新幹線ホームに目をやると、何やら怪しい黄色の光を発しながら走る物体が見えた。どうやら、新幹線の線路を走っているらしい。どう考えても、回送列車が走る時間でもない。それは、新幹線の安全な運行を行うために始発前に検査する事業用車両だったのかもしれない、と後で思った。こうした作業のおかげで、新幹線が最も安全な交通機関のひとつと成り得たのか、と思うと感動してしまった。

 岡山駅で交代すると思われる機関士さんがやってきた。ところが、駅の放送によると、「なは・あかつき」は○分遅れているそうだが、風でよく聞こえなかった。なので、「ふぅー、寒、寒」と言っているその機関士さんに尋ねてみると、「5分遅れているみたいなんよ。」という答えが返ってきた。そして、こう続けた。

機関士さん:高校生なん?

私:ええ、さっき着いた「ムーンライト九州」で着きました。

機関士さん:そうなん。JR西日本に来たらなぁ、何にでもなれるよ。運転士でもええし、車掌でもええし・・・。岡山(の運転区)だったら、山陽線、伯備線、宇野線、瀬戸大橋線、吉備線、それに赤穂線も運転できるんよ。ブルトレもあるし。ええところよ。

 機関士さんは、私に「就職先にはぜひJR西日本を・・・」と言いたかったのだろう。そういえば、今年(2006年)の夏に、益田駅で雑談をした、浜田発最終上り「出雲」を牽引したという運転士さんも、「JR西日本においでよ。」と言っていた。将来のことは分からないが、こう言われるととても嬉しい。

機関士さん:機関車は、もう少し先で止まるで。

  とアドバイスを受けたので、少し移動した。まもなく、入線メロディーとともに、EF66形43号機牽引の寝台特急「なは・あかつき」が入線した。先ほどの機関士さんとここまで運転してきた機関士さん2人が交代した。機関車は、ホームぎりぎりのところに止まったが、何とか撮影できた。

 そして、列車は早朝の岡山駅を発車し、まもなく、赤いランプも闇の中に吸い込まれていった。

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