寝台特急「はやぶさ」&夜行快速列車で行く中学校卒業旅行

寝台特急「はやぶさ」&夜行快速列車で行く中学校卒業旅行

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管理人が中学校卒業旅行として東京や山陰に行った時の旅行記です。

4月3日(月)・北関東編

 秋葉原駅には戻らず、御茶ノ水駅方面へと歩みを進めた。中央線高架横の道を通る。この高架はレンガでできているが、もしかすると万世橋駅があった頃、つまり明治や大正、昭和初期頃に建てられたものかも知れない。変化が激しい都会の中で、よくぞ残っていたものだ。 

 やや急な坂を上る。201系が通り抜けた。201系も、四半世紀以上東京の変遷を見てきた電車だ。都会での車両の置き換えは地方に比べて早いのだが、この201系は例外的に残っている。後輩の205系でさえ既に山手線から撤退してしまった。当サイトの「JR東日本の列車」の「201系」でも書いているが、やはり201系の性能が優れ過ぎていたからに違いない。

 御茶ノ水駅前に着いた。だが、そのまま駅には行かず、すぐそばの「聖橋」で列車を撮影することにしている。また、この聖橋はJRの車両以外にも、東京メトロ丸ノ内線が川を渡る際に一時的に地上に顔を出す所を撮影できる絶好の撮影ポイントなのだ。

 橋の中ほどまで行き、カメラを構える。ちょうど丸ノ内線の電車が来た。さらに橋のたもとには満開の桜が。本当に良いタイミングに来たと思う。

 その後、総武緩行線のE231系もやって来た。秋葉原の電気街を背景に走るE231系のこの写真は、今回の旅行で撮影した写真の中でもお気に入りの1枚になった。

 さて、時間が無いので急いで御茶ノ水駅に行って入場する。ここからは、新宿に行って山手線に乗り換え、池袋、大塚と通り、田端まで行って、さらに京浜東北線に乗り換え、大宮まで行くことになっている。なぜこのような複雑な経路で行くのかというと、@201系乗車A山手線未乗車区間(池袋〜大塚)の制覇、の2つである。

 すぐに201系の快速電車がやって来た。だが、車内は混雑しており、御茶ノ水駅でもかなりの人数が乗ったので、ますます混雑がひどくなった。

 快速なので、途中四ッ谷駅のみに停車し、約10分で新宿に到着した。

 私が乗ってきた201系が到着した反対側にも201系が停まっていて、こちらは大月行きだった。この機会なので、先頭車や方向幕(これは別の201系)、車内を撮影した。

   さらに、デジタル化されていく社会で、ひっそりと活躍を続けるアナログな表示機も撮影。

 山手線外回りホームに移動し、池袋方面行きのE231系に乗車。

 最初は座席に座っていたが、全面展望があまりにも良いので、乗務員室後ろで前方の風景を眺めた。過密ダイヤで運行されているせいか、加減速が激しい。大塚駅停車中には、東京都電の路面電車を目撃。

 やがて、電車は田端駅に到着。

   今度は京浜東北線に乗り換え。だが、京浜東北線の電車はなかなか来ない。約10分後、大宮行きの電車が入線した。

 車内放送で判明したことだが、京浜東北線の電車が走る川崎〜蒲田で、強風による徐行運転が行われたので遅れたそうである。車内は満席で、立つことになった。

 30分程揺られて大宮に到着。

 駅の放送では、宇都宮線(東北本線)が強風により運転を見合わせていることを伝えていた。今日は関東一円で強風が吹き荒れているようだ。幸い、これから乗る高崎線は一時徐行運転を行っていたそうだが、現在は通常運行を行っているそうだ。大宮駅で途中下車をした。

 埼玉県内の駅に降りたのは、今回が初めてである。そういえば、東京では交通博物館にしか行っていないので、お土産を何も買っていない。なので、駅構内のお土産店で、定番の「東京ばなな」と山手線E231系缶バッチ付きの缶詰入りパンを購入した。乗り継ぎ列車の発車時刻まで10分となった。急いで高崎線ホームに行き、電車を待つ。駅構内の留置線には、185系電車と12系か14系らしき車両が1両留置してあった。

 電車を待つ人は多く、一番短い列の後ろに並んでも、とても座れそうに無かった。やがて、上野・池袋方面から高崎行きの211系が入線した。車内はすぐに満席となり、私を含めた多くの人々が立つ羽目になった。

 14:51、電車は大宮駅を発車した。車掌は女性の方で、終点高崎までの乗務だそうである。発車して20分程度で大半の乗客が下車し、車内にも空席が目立ってきた。立っていた人は次第に少なくなり、私も空いた席を見つけて座った。

 どこかの駅に停まって、電車のドアが開いた時、反対側の線路を電気機関車に牽引されたE531系が通過していった。もしかすると、新潟の工場からの帰りなのかも知れない。

 電車の振動が激しい。それは速度の問題ではなく、凄まじい横風が原因だった。車窓には、いつの間にか畑が広がるようになった。その畑からいきなり黄色の砂ぼこりが吹き上がったかと思うと、急に巨大化して、電車を津波のごとく襲った。無論、電車が脱線することはなかったが、車内から見ていてハラハラするくらいの恐怖を感じた。

 大宮から順調に運行を続けていた電車は、高崎駅手前で信号停車。数分間停車した後、ゆっくりと動き始めた。ホームに入線する直前、右手に茶色い旧型客車が数両見えた。中には客室と荷物室の合造と思われる車両も停まっていた。

 16:11、高崎駅に到着した。

 時間があるので、新幹線の撮影に行く。一旦在来線の改札口を出て、新幹線の入場券を買って新幹線用の改札口に入る。思うのだが、在来線も新幹線も同じ会社が運行させているのに、なぜ改札を分けなければいけないのかがよく分からない。もちろん、運賃・料金設定の違いや誤乗車及び違反乗車、乗り間違いをしないようにするためだとは思うが、在来線と新幹線の乗り場は離れている場合が多く、看板や目印などで乗客が判断することは可能だと思うし、新幹線の無人駅やワンマン新幹線は今のところ存在しないので、違反乗車をしてもすぐに見つかってしまう。

 運賃・料金設定の違いが最大の課題になると思うが、これはきっぷの券面に「新幹線用」「在来線用」と明記すれば良いと思う。例えばJR九州の場合は、きっぷの券面に「B特急券」と書かれている場合が多く、分厚い全国版時刻表を隅々まで読んでいない人にとってはかえって分かりにくい。また、外国に行ったことも無い上に乱暴な言い方だが、日本の鉄道会社は乗客に世話をし過ぎていると思う。外国では、駅の構内放送などほとんど無いそうであり、乗客はそれぞれでどこにどう行くか調べ、自らの責任で移動しているという。列車が遅れたからといって車掌や駅員に掴み掛かったり、乗り間違えて泣き付く様な光景は、日本しか見られないという。要するに、電車はダイヤ通り動くから、駅で行き方を放送してくれるから、という“他人任せで無責任”な国民性が、新幹線と在来線で改札を分けなければならないという事態を発生させているのではないだろうか。

 さて、ホームに行ったものの、E2系「あさま」東京行きの撮影には失敗したので、今度は新潟行き「とき」が入線する下り線ホームへ移動した。新幹線も強風により少し遅れているらしく、定刻より4分ほど遅れた16:30過ぎ、新潟行きの「とき」が入線した。運用車両は、期待通りの200系だった。「とき」が入線する直前には、東京行きのE4系「たにがわ」がやって来た。

 「とき」が発車して5分後には、長野行きの「あさま」が通過していった。

 高崎駅のお土産店で、「東京名物 人形焼」を買い、再び在来線ホームに戻り、吾妻線の大前行き電車を待つ。今回、吾妻線に乗る目的は、数年後に川原湯温泉駅付近の一部区間がダムの建設及び完成により水没するためで、その前にせめて1度は、ということと、同線の制覇である。

 向かい側のホームには両毛線の107系が停車していた。107系を撮影してすぐ、昔ながらのオレンジに緑の115系が入線した。

 幸い、先頭付近に並んでいたので難なくボックス席を確保できた。発車時刻が迫ってくると、車内はだんだん混んできた。乗客の多くは下校中の高校生や買い物帰りの主婦、ちょっと早めに帰宅するお父さんなど、夕方の列車らしい雰囲気であった。そして16:52、電車は高崎駅を発車した。

 渋川駅を発車すると、上越線を右手に見送り、線路は単線となった。のどかな田園風景が広がるようになった。遠くには雲の帽子をかぶった山々が居座っている。次第に夕陽は傾き、空も車窓もオレンジに染まった。明日もきっと晴れるだろう。

 電車は山に分け入るように入っていき、いつの間にか乗客たちの大部分は降りてしまっていた。あと数分でダムに沈む川原湯温泉駅に着くという時、線路に沿った工事現場があった。しばらく行くと別の方向に分かれていった。おそらく吾妻線の新線工事かと思われる(下の写真はその工事現場の一部)。

 渓谷を流れる川を渡った。もう夕方遅くになっていたので、景色はそれほどよくは見えなかったが、昼間に乗ればそれはそれは美しい渓谷の景色を味わえるだろうと思う。新線は長大なトンネルがほとんどになるそうで、それだけにこのダムの建設による水没は惜しまれる。

 ダム建設で沈む川原湯温泉駅に到着。停車時間が少なく、木造駅舎は撮影できなかったが、ホームの待合室だけは何とか写真に収めることができた。

 長野原草津口駅を発車すると、いよいよ乗客は1両に5、6人程度までに減った。

 電車はなおも山奥へ山奥へと入ってゆく。吾妻線が全線電化ということが不思議なくらいだ。山奥にも山荘や避暑地が多いからだとは思うが、この電車の終点である大前には、1日わずか5本しか電車が来ないという駅である。

 18:34、終点の大前駅に到着した。外は既に真っ暗。ポツリポツリと人家の明かりが見えた。この駅で降りたのはわずか3人。電車は3両なので車掌が乗務しており、きっぷの回収などを行っていたが、この駅に車掌が乗務している電車が来ることも不思議でならなかった。

 他の乗客たちが全員闇の中に消えてしまうと、ホームには私一人だけとなった。春になったとはいえ、ここは山奥。寒くなったので、簡素な待合室に入る。待合室の時刻表には、飛び石で数字が書いてあった。私が次に乗る18:52発の折り返し列車が最終便である。

   発車まで時間があるので、電車や駅を撮影。真っ暗闇の中での撮影は非常に難しかった。

 続いて車内を撮影。発車10分前となったが、誰一人として乗ってこなかった。

 18:52、電車は大前駅を発車した。この大前駅が佐賀駅からの距離が最も遠く、事実上ここから「復路」となった。電車には私以外、乗客は一人も乗っていない。つまり、3両の115系は全て私の貸切電車。車掌の車内放送も、私一人だけが聞いている。その優越感もつかの間、次の万座・鹿沢口駅で温泉帰りと思われる3、4人の乗客が乗ってた。そういえばまだ夕食を摂っていなかった。昼間に交通博物館で買った弁当を食べる。夏場だったら危険だが、今は大丈夫だろう・・・と思い、あまり気にせずに食べた。無論、その後は何も無かった。

  長野原草津口駅では7分ほど停車するそうなので、カメラを持って途中下車。

 駅の改札口も出てみる。このような山奥の駅にも駅員が配置されているところを見ると、駅名に温泉地の名前が入っていることに納得できる。実際、観光客の姿もちらほら見受けられた。

 長野原草津口駅を発車し、電車はさらに下り坂を下っていく。次第に人家の明かりも増えてきた。乗客も増えてきた。だが、往路のような賑わいは無く、中には疲れ果てて狭い座席で横になっている男性もいた。

 吾妻線は山の中を走る路線なので、トンネルが非常に多い。川原湯温泉駅を発車してしばらく行くと、一瞬、何かの壁が過ぎ去っていった。でも、こんなに短い壁は・・・あ、もしかすると日本一短いトンネルとして有名な「樽沢トンネル」ではないか。この樽沢トンネルも、ダム水没に伴う新線切り替え後は電車が通らなくなる。  吾妻線の旅は終わり、上越線に入った。20:36、終点の高崎駅に到着。ここからは、八高線に乗って東京都心を避けるかのように一気に南下し、相模線経由で東海道本線の茅ヶ崎駅まで行く。八高線はキハ100系の3連で、車内は空いていた。

 私は2両目の進行方向左側の1人掛け座席に座った。発車時刻が近づくと、お勤め帰りのサラリーマンでやや混雑してきた。20:53、キハ100系は高崎駅3番乗り場を発車した。

 倉賀野駅を発車して高崎線と分かれると、いよいよ非電化区間となり、列車はフルパワーで夜の八高線を駆け抜ける。駅に停車するたびに乗客は降りていき、20分もすれば車内は静かになった。それでもサラリーマンの姿がゼロになったというわけではなく、仕事疲れの上に長い通勤時間から疲れ果てて寝ている人もいた。ただ、彼らを見ていて凄かったのは、降車駅が近づくとむっくりと起き上がり、ドアが開くと降りていくという「目覚めのプロ」だったということだ。一度寝てしまうとぐっすり眠ってしまう私には到底真似できないことである。

 22:14、列車は川越線との接続駅である高麗川(こまがわ)駅に到着した。

 お次は八王子行きの電車に乗り換え。1番乗り場へ急ぐ。

 電車は209系で、車内は硬いロングシートだった。

 22:21、電車は高麗川駅を発車した。車内は空席が目立ったが、居酒屋経由のサラリーマンや大学生の姿など、客層は「夜」から「深夜」へと変貌しつつあった。高麗川以南は駅の発車メロディが鳴らされ、同じ曲でも微妙に音の高さや速さが違い、聞いていて楽しかった。

 発車メロディは、九州の駅にはほとんどなく、是非導入して欲しいものだと思った。この発車メロディは乗客に「まもなく発車しますよ〜」ということを伝えるものだと思うが、車掌や駅員が「まもなく発車します。」と言ってすぐにドアを閉めるより、20秒ぐらい前からメロディを鳴らし続けてドアを閉めたほうが、駆け込み乗車などが少なくなると思う。1分前でも発車間際でも「まもなく発車します。」と言っているようでは、具体的にいつ発車するのか分からないし、本当に「まもなく」だということが分かって焦った乗客が駆け込むから、駆け込み乗車が起こるのだと思う。その点で、駅メロディは大いに評価すべきである。そういえば、往路の高崎線では、メロディのほかにも鳥の鳴き声が鳴らされていたような気もする。また、そのメロディ自体にも懐かしい童謡を採用したものも多く、今や一つの音の文化を形成しているような感じである。

 この八高線は単線で、箱根ヶ崎駅では行き違い列車の交換を行った。

 この八高線は、一部の区間が米軍の横田基地を横切っているそうだ。夜なので外は真っ暗。私は横田基地を見つけられなかったが、軍用地に平和的な鉄道が走っているとは恐ろしいことだ。そもそも、都心からそれほど離れていないところに米軍基地があること自体、先の大戦での敗北が未だに尾を引きずっている証拠だ。「もはや戦後ではない。」という言葉が、40年ほど前の高度経済成長期に声高に叫ばれていたそうだが、米軍基地問題や中国や韓国の反日感情、60年間も原爆や戦傷で苦しむ人々など、今でも戦争の爪跡が残されている。私の祖父は、「ソ連(今のロシア)だけは許せない。」と言っていた。ソ連は終戦間際に日ソ中立条約を一方的に破棄して中国北東部の満州に侵攻し、日本側は民間人も含めて多くの犠牲者を出した。そして、現在も択捉島や歯舞諸島などの北方領土を占領し続けている。このようにして青春を奪われ、肉親や友人を戦争で亡くした人々が今も大勢いることを忘れてはならない。

 八王子到着前に、車内放送で南武線人身事故のお知らせが行われた。この人身事故が、後に意外なところで30分以上も列車を遅らせることになった。

 八王子には23:02に到着。3分の接続なので、急いで横浜線ホームへ。既に黄緑と緑のラインを巻いた205系が発車を待っていた。車内は意外にも満席で、先ほどの八高線や、中央線から乗り換えた人々も加わって車内は混雑した。もし時間があるのならば1本遅らせてもいいのだが、この後に乗る相模線最終電車に接続するのはこの電車が最後であり、絶対に乗らなければならなかったのだ。

 23:05、電車は八王子駅を発車。発車する際の発車メロディは童謡の「ゆうやけこやけ」で、ホームの発車放送の肉声が入るタイミングがメロディが鳴り終わる前の丁度良いところで、ちょっと感動してしまった。でも、何故深夜に「ゆうやけこやけが・・・」と思って、旅行終了後に調べてみると、この童謡の作詞者が八王子出身だったからだそうである。

 10分ほどで橋本駅に到着した。205系を撮影して、急いで相模線ホームへ。下の写真の左端に写っている青系の帯を巻いた電車が相模線205系である。

 相模線電車は、先ほどの横浜線ほど混んではいなかったが、結局立ち席となった。23:21、相模線の最終電車が橋本駅を発車した。車掌は女性の方だった。時刻は23:30を回った。乗客はどんどん降りていったが、乗る人もちらほら見受けられた。都会の人は朝が早く夜は遅いという生活をしていて、よく体が持つものだ、と思ってしまう。だが、座席の大半が空席になると、ロングシートをベッド代わりにぐっすりと寝ているだらしない大人がいたこともまた事実だ。終点の茅ヶ崎まで一度も目を開けることなく、常に他の乗客からは「傍若無人な男」という視線で見られていた。

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