寝台特急「はやぶさ」&夜行快速列車で行く中学校卒業旅行

寝台特急「はやぶさ」&夜行快速列車で行く中学校卒業旅行

E

管理人が中学校卒業旅行として東京や山陰に行った時の旅行記です。

4月3日(月)・交通博物館編

   11:20頃、交通博物館に到着した。交通博物館を訪れたのは、博物館が来月14日で閉館となるからだ。今回の旅行のメインの一つでもある。

 交通博物館の前では、0系やD51形の前で記念撮影をしている人が多かった。既に入館券は秋葉原駅で購入していたので、そのまま館内に入り、記念券に引き換えてもらった。無論、これも交通博物館閉館記念事業の一つである万世橋駅発の記念の硬券は既に無くなっていた。館内は大勢の客でごった返していた。その人ごみの中で、旧万世橋駅遺構見学の受付が行われていた。私はそこにいた係りの方に、

「当日受付で空いているのは何時ですか?」

と尋ねた。すると、係りの方は、

「次は14時台と15時台ですね。」

と答えた。その時間帯というと、私は高崎線の電車に揺られている頃だ。残念ながら、当日受付での見学も諦めざるを得なかった。

 気を取り直して、館内見学へ。まず、売店前の機関車たちを撮影(上:C57形135号機、下:9850形機関車「マレー式」)。

 その近くで、館内スタンプラリーが行われていたので、早速参加を決定。これは別に集団で動くわけではなく、自分の好きなところからスタンプを押していってよいことになっている。スタンプは計9個で、鉄道だけでなく、2階や3階の自動車や飛行機といった部門にも設置されている。

 近いところでは、今さっき撮影したばかりのC57形135号機と9850形機関車「マレー式」が近いようなので、早速押した。続いて、東京都電のコーナーへ。ここはスタンプの項目では無いが、路面電車は私の興味のある分野なので入ってみた。そこには錆びた区間表示板や実際に使われていたと思われる方向幕などが展示してあった。

 お次は万世橋駅の特集コーナーへ。

 万世橋駅は現在の交通博物館の所にあった中央線の駅で、展示パネルによれば開業は1912年(明治45年)4月1日で、レンガの駅舎は東京駅を設計した、あの辰野金吾である。

 かつて、この地は交通の要衝であり、須田町交差点を中心として繁華街を形成していたそうだ。というのも、開業当時は中央線がまだ東京まで達しておらず、この万世橋駅が終着駅として賑わっていたそうだ。

 だが、1919年(大正8年)には、中央線が高架で神田まで開業したことにより東京まで全通し、万世橋駅は中央線の終着駅では無くなった。さらに1923年(大正12年)の関東大震災で駅舎が焼失。その後、駅舎は再建されたものの、非常に簡素なもので、復興後の区画整理により須田町交差点が移設され、万世橋駅は裏通りの駅となってしまい、秋葉原駅の開業が追い討ちをかけて次第に乗降客が減っていった。1936年(昭和11年)には駅舎が大幅に縮小され、跡地に現在の交通博物館の建物が建てられた。そして、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)11月1日に営業を休止し、その後二度と復活することは無かった。

 だが、中央線の高架橋は万世橋駅が存在していた当時のまま改築されておらず、そのため万世橋駅の遺構がそのまま残っている為、博物館の閉館を前に特別公開が行われているのだ。万世橋駅は、新たな路線の開通や駅の開業、それに地震や戦争という不運続きで消滅してしまった幻の駅だということである。

 続いて、寝台特急の客車や昔懐かしい通勤型電車の模型が展示されているコーナーに行った。車内まで精巧に作られており、交通博物館の意気込みを感じた。

 

   別の場所では、今まで訪れた時には気がつかなかった旧国鉄佐賀線の昇開橋の模型やその仕組みが紹介してあった。ここは私も何度か訪れたことがある。かつての筑後川は大型船の往来があり、そのため橋の中央部だけ上下できるようにし、そのような船の通行も可能にしたのである。現在は漁船が行き交うだけなので、上下する必要は無いが、歴史的価値と観光資源として活用する為、線路を取り払って遊歩道にした上で、現在も決まった時刻になると、橋の中央部にある操作室の操作により橋が上下するようになっている。

 鉄道部門で、まだ押していないスタンプは、167系修学旅行用「なかよし号」と、1872年(明治5年)に新橋(当時)〜横浜(現桜木町)で日本初の本格的な旅客営業を開始した際に走った150形蒸気機関車「1号機関車」を撮影。この機関車、実は東京で活躍した後、現在の島原鉄道に払い下げられ、そこで活躍していた時期があるのだ。この1号機関車が九州の地で走ったことがあるということは、今回、交通博物館のパネルを見て、初めて知った。

 

 昔の鉄道車両の座席をそのまま座れるように設置してあるところで一休み。現代の座席よりもやわらかく感じたが、人間工学的な設計では現代の方が優れていると感じた。

   続いて階段を上がり、2階へ。ここは主に船や自動車、道路交通に関する展示が行われている。自動車が走り始めた頃の手動信号機や昔の道路標識、

「こちら葛飾区亀有公園前派出所(こち亀)」の漫画に出てきそうなオート三輪車(名称:マツダT2000オート三輪)や自転車、

ボンネット型の「国鉄バス第一号車」、

船舶部門では青函連絡船の紹介パネルや江戸時代の船(下の写真)を再現した模型が展示してあり、

 鉄道部門に劣らず、非常に面白い展示内容だった。ちなみに、2階のスタンプ設置数は3つで、全部押して3階へ。

 3階は航空部門とあすの交通。日本航空の飛行機の機内を一部再現したコーナーや、昔のアニメやゴジラに出てきそうなヘリコプター(下の写真)、リニアモーターカーなどが展示されていた。

   3階には、3箇所にスタンプが設置されており、それを押して別館の休憩コーナーで“今夜の”夕食を購入。お昼は「はやぶさ」の車内で購入したからである。

 別館への連絡通路を通る際、物凄く強い風が吹いていて、近くを歩いていた人たちが悲鳴を上げていた。手に持っていたパンフレットが飛ばされそうになった。天気は快晴なのに、風が強い・・・。ちょっと先行きが不安になった。そのような状況の中で、何とか屋外展示の「弁慶号」を撮影し、すぐに本館内へ。

   本館に戻って、1階に行き、鉄道模型パノラマを撮影して、

   売店に直行。既に13:00近くなり、予定の時間はとうに過ぎている。だが、時間には充分に余裕を持たせていたので大丈夫だ。この後乗車する群馬県の吾妻線の電車に間に合えば良い。

 売店では閉館限定の記念品を販売しており、私はペナント(2000円)を購入した。このペナントは、「さよなら交通博物館 2006年5月14日閉館」という文字と、博物館の玄関部分が描かれていた。この他、寝台特急「はやぶさ」と「富士」のヘッドマークやテールマーク、寝台特急「さくら」のヘッドマークカンバッチなどのブルトレグッズ、私が博物館を訪れた時に必ず買っていた、JRトレイン君(クッキー)のE231系タイプを購入し、合計金額は4000円を超えてしまった。多少使いすぎてしまったが、いつもながらの「最後だから衝動買い」ということで気にしないようにした。

 博物館をそろそろ出ないと、余裕を持たせている時間をオーバーしてしまうので、出口へ向かう。雑踏の中、出口へ一歩一歩近づいていく。館内を振り向いた。小学5年の夏、「さくら」に乗って行った初めての東京旅行で初めて訪れた交通博物館。あれから5年が経ち、交通博物館は来月、この地から無くなる。「さくら」は既に無い。横を走る中央線の201系は、新型車への置き換えが発表された。たった5年で、ここまで変わってしまった。小5の夏に訪れた際、この交通博物館でガイドブックを盗まれてしまったことも、今は博物館にまつわる良い思い出となった。

「ありがとう。」

 そう心の中で呟いて、春の陽射しが眩しい外に出た。博物館の前でも、多くに人々が記念撮影を行っていた。どの人の心にも、この博物館での楽しい思い出が刻まれたことだろう。この地に博物館が移転してきて既に70年以上が経過したが、それ以来、ずっと当時の建物を使用しながら今日までの歴史を歩んできた交通博物館。戦中戦後の混乱期を除き、戦火を潜り抜けて営業を続けた交通博物館。その功績は、永久に忘れ去られることはないだろう。

 この交通博物館の建物は、どうなるのだろうか。新聞記事の報道によれば、暫定的に事務室か何かが残されるそうだが、せめて建物を再利用又は一部縮小して、「旧万世橋駅資料館」のような形で残すことは出来ないだろうか。無論、建物の老朽化は避けられないが、一度は東京のほとんどが灰になり、戦後は街も人々の生活も急速な発展を遂げる中、70年以上もがんばってきた建物をそう簡単に壊してよいものだろうか。

 最後に、博物館前の0系とD51形を撮影。来年、この交通博物館はさいたま市に開館する「鉄道博物館」に生まれ変わるそうだが、この0系とD51形の今後は、公式サイトには発表されていない。「こち亀」のアニメスペシャルでは、横領した大金の隠し場所にされた0系だが、やはりスクラップにされてしまうのだろうか。

 

 続いて、建物の全景を。 

 

 交通博物館は来月14日で閉館する。もう二度とこの建物には“会えない”かも知れない。でも、交通博物館での思い出は永遠だ。さらば、交通博物館。

 

Fへ

旅行記&特集へ

トップへ