青春18きっぷで行く北陸経由東京旅行2004C

12月30日

去年の北海道に続き、今年も管理人は青春18きっぷを使った旅行を計画した。題して「青春18きっぷで行く北陸経由東京旅行」! 翌朝、目が覚めると、時計は5:30を回っている。やばい、あと5分で到着じゃん!と思っていると、列車は、雪の積もった駅で停車している。駅名表示板があった。「長坂」と書いてあり、次の停車駅は小淵沢であった。寝ぼけているのか?と思っていると、車内放送が流れてきて、現在、列車は長坂という駅に停車していて、小淵沢の先を走っていた貨物列車の機関車が故障して動けなくなっているとのことだった。しかし、ここから終点・白馬までは、まだ相当の距離がある。さらに今から救援列車をゆっくりと向かわせるとのことで、まだ相当の時間がかかるという。時刻表を見れば、今のままでも少なくとも2時間はかかる。そして、空が明るくなりはじめた6:30頃、「貨物列車と救援列車の退避が終わったので、まもなくの発車となります。」という放送があり、やっと電車は動き始めた。しかし、直後の車内放送では「列車は3時間34分遅れて運転を再開いたしました。」との放送が。さっそく時刻表で、白馬駅定時着の時刻に3時間34分をプラスすると、なんと白馬到着が9時を過ぎてしまう計算に。さらに、接続の大糸線南小谷行きが白馬8:53発。しかし、大糸線は、典型的なローカル線で、この車内にも、私と同じように、大糸線経由で山を越え、日本海側へ出る人も大勢いるだろう。だから待ってくれる・・・と信じて、すぐには車掌さんへ申し出なかった。遠くに見慣れない形をした影が朝日のシルエットとなって浮かび上がっていた。富士山だった。裏富士もなかなかきれいなものである。

やがて列車は、遅れを取り戻すかのように、ぐんぐんスピードを上げ、停車駅の放送ごとに、接続列車の案内と、何時間遅れているか告げた後、車掌が必ず「本日列車遅れまして、大変ご迷惑をおかけします。」と何度も謝っていた。まもなく松本に着く、というときに、列車は駅でもないところに停車。すぐに車内放送が入り「松本駅構内のホームが列車で混雑しております。しばらくお待ちください。」との放送が。列車で混雑、というのは、すべての発着番線に、発車待ちの電車が待っていて、それらの電車が出発しないことには、この電車は動かない、ということである。大糸線松本7:48発の有明行きが発車したことで、やっと松本駅に入線。松本市は標高が高い割には大きな街であるということで、有名である。スキー場行きのバスが出ているのか、半分くらいの乗客が降りていった。私の隣に座っていた男性も、別の座席に座っていた仲間と合流して降りていった。私が乗っている電車も動き始め、大糸線内に入った。雪は相変わらず積もっているが、思ったほどではない。この大糸線、もしこの付近で大地震や大きな地殻変動が起きれば、日本が真っ二つに割れるという、『フォッサマグナ』に沿って走っている。また、電気の周波数もこのフォッサマグナを境にここより西は60Hz、東は50Hzと分かれている。陽はどんどん昇っていき、快速「ムーンライト信州81号」ではなく、快速「サンライト信州81号」がお似合いのような時間になった。標高が高くなって、だんだん山が迫ってきた。積もっている雪もどんどん深くなっている。電車の前方には、真っ黒な雲が山々を覆っていて、山の向こうは雪が降っているということを予感させた。

途中駅で、特急列車と交換した。面白いことに、大糸線では、交換設備のある駅や信号所では右側通行を行っているようだ。例によって、進行方向右側のホームに電車は入線し、左側のホームを特急が通った。今さらではあるが、車掌さんに白馬からの接続列車に連絡できるかと聞いたところ、ちゃんと連絡できていて、その先の南小谷での接続も連絡可能で糸魚川まではちゃんと行ける、と言われたので安心した。さっき時刻表で調べたら、何とかT−1グランプリの北陸本線ポイント駅:直江津まで行き、今夜の夜行列車が発車する大阪まで戻れることが分かったので、この件は一件落着。電車は、さらに雪深い山を分け入るように入っていく。

大糸線走行中の動画はこちら。(3.61MB)

途中、大きな湖や、こんな雪深い山の中に、古い家が集まった集落がいくつかあり、雪国に来たんだな、と実感する。

そして、やっと終点・白馬に到着。時刻は9:03を回っていて、車内放送では、3時間34分遅れての到着、とのことであった。松本駅手前の信号停止で、遅れたのを取り戻すのに精一杯だったのだろう。他の車両からはぞろぞろと人が降りてきて、階段へ急ぐ人の姿も見られた。南小谷行きは1番線から発車する。1番線には、放送どおり、E127系が8:53の発車時刻を過ぎて待っていた。陸橋を渡り、1番線へ。そしてなんとか席を確保した。乗る前にチラッと見たが、この電車、東北地方を旅する人たちから、大いに嫌われている701系にかなり似ているのだ。東北の701系が交流なら、こっちは直流、といったところである。電車は9:06頃に南小谷へ向けて発車した。 2両編成のE127系は、2両編成なのに、糸魚川へ抜ける旅行客で満員となっていた。電車なので、らくらくと勾配を上って行き、南小谷に到着。南小谷からはJR西日本となり、ここからは非電化区間となる。キハ52の首都圏色が停車していて、ドアが開くと同時に、立っていた乗客は急いで電車から飛び出す。中には、南小谷が目的地の人もいた。私は座っていたので、今度は立ち席になった。このキハ52は、乗客がボタンを押して開閉する装置が付いておらず、発車するときは自動で閉まるが、そのほかは、乗客が手動でドアを開け閉めする。しかし、ドアが非常に重く、お年寄りや体の不自由な人はどうするのだろう?と思っていた。このキハ52も発車時刻を過ぎて待っており、乗り換えが終わると、すぐに発車した。さっきの2両編成から、今度は1両でクロスシートの、キハ52なので、車内はさらに混雑した。途中駅でも数人の乗降があった。やがて、列車は次第に下り坂区間に入り、峠を越えたことが分かった。雪は相変わらず深く積もっている。しかし、だんだん標高が下がっていくと、積雪の量は少なくなっていき、あと10分で糸魚川、という所まで来ると、雪ではなくみぞれになっていた。糸魚川に到着すると、さっそくキハ52の撮影に入る。塗装を変更したばかりらしく、その記念行事が12月26日に行われたばかりであった。(上から、キハ52首都圏色、留置してあった旧国鉄色と、JR西日本の気動車で使用される車体色のキハ52、それに連絡橋から撮影した糸魚川駅構内。)

また、糸魚川付近は豪雪地帯であるため、いつでも稼動できる状態の除雪車や、築80年以上という、立派なレンガ造りの車庫が現存しており、小さな都市ながら、鉄道に関しては盛りだくさんの場所だった。車庫の中にはDE10形機関車が仲良く休んでいた。

糸魚川駅で途中下車。売店でお昼のサンドイッチや飲み物を購入。家に電話をかけようと、公衆電話を探すが、見つからない。駅から一歩出たところにあった。まもなく直江津行きの普通電車が入線すると言うので、改札を入る。直江津はさっき述べたとおり、T−1グランプリの北陸本線ポイント駅となっており、ここに行かないと、北陸本線の得点・4ポイントを失ってしまう。そのためだけに、直江津へ行くのだ。入線したのは、581・583系改造の419系。九州版として交流の715系もあったが、今はすべて廃車。1両が北九州の九州鉄道記念館に、特急として活躍していた当時の車体色に戻されて保存してある。715系には私も何度か乗ったことがあり、たしか4両編成で運転されていて、車内は青いモケットだった記憶がある。この419系は、3両編成となっていて、両端とも切妻タイプの、いわゆる「食パン電車」であった。車内は、セミクロスシートになっていて、モケットは茶色だった。寝台は天井に片付けて、開けないよう固定されており、その横には網棚が付いていた。肘掛などは当時の面影が残っていた。電車は、やがて海沿いを走るようになった。車窓には、荒波の冬の日本海が広がっていた。この辺りでは所々に雪が積もっている。直江津に到着すると、さっそく降りて、電車が折り返すまでの7分間に写真を撮った。

折り返した電車は糸魚川行き。定刻に直江津を出発。しかし、車内にまた迷惑な乗客が乗っていた。その男が座っていたのは私の座っているボックスからずいぶん後ろの方だが、車両全体に響き渡る声で、「馬鹿野郎」とか「この野郎」などと、ビートたけしさんみたいな暴言を連発していた。車内ではもう少し静かにしてもらいたいものである。糸魚川では再び途中下車し、また売店でお菓子などを買ったあと、改札に入ると、すでに富山行きの457系が入線していた。車内は誰も乗っておらず、占領状態だった。座席のシートは茶色だった。

電車は、元急行形の457系とあってか、ゆったりしている。デッキも付いているので、停車中は乗客が自分で開け閉めしなくてもよい。乗車率40%(ほとんどのボックスに1人以上座っていた)ぐらいになったところでで発車。糸魚川を発車して少し行くと、弱い雪が降り出したが、積もってはいない。トンネルがあった。そしてそのトンネルを抜けると、猛吹雪に変わり、辺りは雪が積もっていた。山一つでこれだけ違うのか・・・と驚いた。電車は、猛吹雪に逆らうように走り、モーターの音も、それに合わせて、唸り声をあげている。とちゅう、683系(JR西日本所属車)や、同じ457系とすれ違った。駅に着くたびに、数人の乗客が乗ってきた。こんな寒い吹雪の中でよく我慢できるな、と感心してしまう。(ほんとうは寒いのだろうけど・・・。)泊という都市に差し掛かると雪は幾分おさまり、さらに進むと、晴れ間がのぞき、積雪も全くなかった。遠くには雲に覆われた立山連峰がそびえていた。そして、富山へ到着。富山駅で、隣の1番線ホームに、高運転台タイプの419系が停車していたので、早速撮影。

さて、行こうか、と思っていると、すぐ近くで「○○乗務の○○!見習い研修終了いたしました!ありがとうございましたっ!」(たしか、こんなことを言っていた。)という大声が聞こえてきた。見てみると、数人のJR職員が、さっきの電車の運転士を囲んでなにか話していた。なるほど、運転士の見習い研修、つまり運転士の卵という訳だ。見習い運転と言うことは、もうあと少しで殻が割れるのだろう。思ったのだがJR西日本の運転士はどの方も、信号確認や、停止位置確認などで、きびきびと緊張した声で、「信号確認!」とか「○−○停車!」などを一人で黙々としゃべっている。これには、会社全体の意識的なものだろうと思う。富山で途中下車をした。別に何の用もないが、どういうところか見てみたかっただけである。駅のコンコースに、天然記念物の雷鳥の像が2羽、つがいなのか、展示してあった。雷鳥と言えば、485系特急を思い浮かべる。金沢行きの電車がまもなく入線しそうな気配なので改札を入る。入線してきたのは、さっきと同じく457系。さっそく乗り込み、席を確保した。さすがに夕方近くなったので、買い物帰りの主婦や、年末ぎりぎりまで働くサラリーマンもちらほらいた。しかし立ち席が出ることはなく、ほぼすべてのボックスが埋まったところで、発車。時刻表で調べると、金沢では、数十分の時間がある。せっかくなので、七尾線金沢行きの415系乗車に計画変更。森本駅でいったん降り、後続の七尾線用415系金沢行きを待つ。数分後、カラフルな車体色の415系が入線した。この415系は、485系の足回り機器と113系を合体させた、珍しい車両で、本家の415系とは違う。車内のボックス席は埋まっていたので、ドア付近のロングシートに座る。数分後金沢に到着した。さすがは、金沢!といったところで、駅舎は大きく、いくつものホームがあった。北陸地方の中心都市らしく、人がたくさんいて、これから帰省する人が大半であった。改札を出て 、駅弁屋があったので、さっそく幕の内弁当を購入。そういえば、この旅行中で、「駅弁」のロゴが入った弁当は一度も食べていなかった。時間があるので、ホームに上がり、485系雷鳥や、北越急行所属の681系「はくたか」を撮影。「はくたか」は、さらに3両が増結され、越後湯沢に向けて出発した。

そのあと、米原行きの457系3連がまず入線した。そして、さらに3両を増結。こちらは敦賀で切り離しとなる。さっそく乗車し、ボックスを確保。やはり茶色いモケットの座席だった。16:55、定刻に金沢を発車し、福井方面へ向かう。次第に暗くなり始め、乗車して30分も経てばほぼ真っ暗になった。ちょっと夕ご飯には早いが、さっき、金沢で購入した、幕の内弁当を食べる。中には金沢地方の郷土料理も入っていて、まさにこれぞ駅弁!といった感じの弁当であった。

食べ終わった頃には、福井を発車し、敦賀へ向かっていた。車内は、年末だからか、通勤客で混雑することはなく、旅行者の姿のほうがむしろ多かった。私の向かい側のボックスに座っていたグループも、米原へ行くようだ。(大声で話してたから、聞くなと言われても聞こえる。)敦賀に到着すると、後ろ3両は切り離しとなる。私は、前から3両目に乗車していたので、移動する必要はない。切り離し作業と、「サンダーバード」の入線をビデオカメラで撮影し、車内へ戻る。数分後、敦賀を発車。新疋田、湖西線と分岐する近江塩津を通り、長浜まで来れば、米原はまもなくである。米原で、途中下車。駅員の方に青春18きっぷを見せると、『いっぱい乗ってくれてはりますなぁ。』と言われた。本文中には書いていないが、今回の旅行では、降りた駅で、必ず途中下車印を押してもらっている。その数が、券面を埋め尽くし、その多さを見て、驚かれたのだろう。駅によっては無愛想な対応をされたため、ちょっと不快に思っていたが、この駅員さんのおかげでそういう気持ちもなくなった。再びホームへ出て、新快速網干行きを待つ。米原駅は、新幹線も停車するが、「のぞみ」は通過する。そのたびに、空気を切り裂くような、音が響いていた。駅構内ですれ違った「のぞみ」もあった。新快速は、まず最初に223系4両編成が入線。そのあと、長い編成の223系が入線し、乗車開始。発車を待っていると、隣の席に、一人の少年が座った。その横にはお父さんらしき男性が立っていて、なにか話している。最初は訛りの強い方言かな?と思っていたが、よく聞いてみると、中国語のようである。そして、お小遣いなのか、日本の紙幣を数枚渡していた。金持ちなのだろうか?後ろの方からは、「・・・ニダ。」と韓国語らしい話し声もしている。新快速は、国際列車のようだった。米原を発車すると、初めは停車駅が多いので、さほどスピードは出していないが、停車駅の多い区間を通り過ぎると、223系の最高速度130km/hで走る。約1時間で京都に到着。本来の計画では、京都から奈良線に乗り、木津まで行き、片町線に乗り換えて、大阪へ行く予定だったが今朝の快速「ムーンライト信州81号」が大幅に遅れたことで、仕方なくそのまま大阪へ向かう。大阪に到着すると、今夜の宿である、快速「ムーンライト八重垣」出雲市行きが発車するホームへ向かう。ホームは通勤客と混じって、旅行者の姿も見受けられた。ホームの売店で、お菓子や、飲み物を購入。買ったあと、指定を取っている2両目の乗車位置に並ぶ。すでに長い列ができていた。指定を取っているので、慌てる必要はない。

やがて、京都方面から、快速「ムーンライト八重垣」が入線した。驚いたのは牽引機がDD51だったことである。

出雲市までは、電化されているため、381系などの電車が乗り入れている。だから電気機関車の運転だろう、と思っていた。ディーゼル機関車で運転されるのは、いくら電化されていると言えど、山陰本線や、伯備線などの、区間が限られたところでわざわざ電気機関車を運用するよりも、寝台特急「出雲」の牽引機としても使用されるDD51を使用したほうが便利なのだろう。14系客車も、ムーンライト山陽のカラフルな車体色ではなく、ブルートレインと同じ青い車体である。この日は大阪からほぼ満席状態で、やはり帰省客が多い。私の隣には、若い男性が座った。この方も帰省客だろう。大きな荷物を抱えていた。そして22:22、定刻に発車。ディーゼル機関車なので、加速は遅いだろうと思っていたが、やはり大型機関車だからか、かなり速いスピードで、201系とほぼ同じ速度だった。運転士の腕がいいのか、あまりブレーキもかからない。ブルトレと同じチャイムが流れ、車内放送が始まった。三宮に到着する頃には、ぼちぼち乗客の寝息が聞こえてきた。車掌が検札に来て、青春18きっぷと、指定席券を見せる。青春18きっぷの途中下車印を見て、「うわ〜いっぱい押されてますね。」と言われ、押しにくそうに5日目の途中下車印を押された。(途中下車した森本駅の駅員さんがよりによって5日目のところに途中下車印を押していた。)

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