廃線跡を行くB・佐賀電気軌道

幻の路面電車・佐賀電気軌道の廃線跡特集です。

 かつて日本の各都市で走っていた路面電車。モータリゼーションで次々に姿を消していったが、九州では、今なお、長崎、熊本、鹿児島で路面電車が走っている。路面電車型車両が走っている筑豊電鉄を合わせると、北九州市や直方市も含まれる。全国的に見ても、九州は路面電車残存都市の“密度”が高いとも言えるのだ。

 九州で一番人口が少ない佐賀県の県庁所在地・佐賀市。九州内の他の県庁所在地の人口で比べても、最も少ない。合併で何とか20万人を超えたくらいだ。市内には市営バスをはじめ、西鉄バス、祐徳バス、昭和バスといったバス会社が重要な市内交通を担っているが、特に市営バスは、少子化や市街地の衰退を受けて成績が芳しくなく、街の中心部なのに小型バスが走っているという状況である。

 当然ながら、人口規模も小さい佐賀市に路面電車が走っていたはずもない。そう考える人が多いだろう。しかし、実際は違う。太平洋戦争前の約7年間、この佐賀市に“幻の路面電車”が存在したのである。

 路面電車を運行していた会社の名前は「佐賀電気軌道」。旧佐賀駅より少し西の場所にあった神野(こうの)電停から佐賀郡川上村(現佐賀市)の肥前川上電停までの7.5kmを結んでいた。

 路面電車の運行はわずか7年間だったが、鉄路自体は1913年(大正2年)に開通していた。当時は川上軌道による運行で、区間は神野〜都渡城(ととぎ、後に肥前川上)。蒸気機関車による軽便鉄道だった。1917年(大正6年)、今度は南に路線を延ばし、神野から佐賀市中心部に近い中ノ小路までの区間が開通した。現在、「中ノ小路」は中央通りのバス停名になっているが、中央通りは戦後に完成した道路であり、川上軌道時代の「中ノ小路」は別の場所にあったものと思われる。

 1919年(大正8年)に、佐賀馬車鉄道と合併、佐賀軌道へと社名変更を行った。歴史としては佐賀馬車鉄道の方が古く、1904年(明治37年)に水ヶ江〜諸富間が開通していた。そして、1927年(昭和2年)、佐賀電気軌道と社名変更を行った。この時、同社は電化路線を保有していなかったが、社名に「電気」という文字を入れていることから、この時、既に路線電化を計画していた可能性がある。

 しかし、その翌年に馬車鉄道と神野〜中ノ小路間の運行を休止、バスに転換された。結局残ったのは、神野〜肥前川上間だけとなったが、1930年(昭和5年)、ついにこの区間が電化され、路面電車が走るようになった。乗車経験があるという管理人の祖母の話によると、「乗客の数は多かった。」ということで、経営は好調だったようだ。また、「電線(架線)と(集電装置が)こすれたときに、火花が散ってとてもきれいだった。」そうで、このことからも電化されていたことが分かる。

 電化は全線直流600Vだった。軌間は914mmの全線単線で、祖母の話によると、線路は道路の真ん中ではなく、片側に寄せられていたそうだ。電車の色は茶色だったそうで、ライトの位置までは覚えていないという。運行本数は、1934年(昭和9年)改正時には日中で16分間隔だったそうである。比較的運行本数は多かったようだ。停留所は、神野、上佐賀、高木瀬、三本松、肥前春日、肥前川上などがあった。当時は今よりもずっと田舎だったに違いないが、「乗客の数が多かった」のは、終点の肥前川上から山の中に入っていったところに、古湯温泉などの温泉地があったことが要因のようである。なお、国鉄佐賀駅(旧駅・旧長崎本線参照)には接続しておらず、佐賀駅と神野停留所は国鉄列車にあわせて運行していたバスで連絡していた。

 しかし、バスで連絡するよりも、バスでそのまま運行した方が早い、という方針から、1937年(昭和12年)、佐賀の路面電車は、電化後わずか7年で全線が廃止された。これにより、佐賀市付近における市内交通機関はバスだけになり、二度と路面電車が復活することはなかった。

 現在の佐賀市大和町に住んでいた管理人の祖母は、当時のことを記憶していたので、その証言を元に廃線跡を調査することになった。しかし、廃止からかなりの時間が経過しており、また、モニュメントも何も設置されていないことから(取材時※)、残念ながら当時の痕跡は一つも発見できなかった。なので、当時、路面電車が走っていたルートだけでも、写真を交えて解説していこうと思う。

※2007年(平成19年)3月に、旧肥前川上(都渡城)停留所跡に、記念碑が建立された。

旧神野電停付近

   祖母の証言によると、神野電停は旧長崎本線の北側、現在の堀江通りにあったそうで、ここから現在の国道264号線(一部旧道)にほぼ沿う形で肥前川上までの線路があったという。下の写真は、証言の場所で肥前川上方面を向いて撮影したもの。高架橋は現在の長崎本線である。

国道34号バイパス南

 当然ながら「国道34号バイパス南」という電停は無かったが、ここから道路は片側2車線に。戦後に拡張されたものだが、多くの自動車が行き交うこの道を、かつて路面電車が走っていたとはとても想像できない。ちなみに、国道34号バイパスの向こうには、国立佐賀病院や総合競技場がある。路面電車が走っていた当時、国立佐賀病院がある場所には軍隊関連の施設があったそうである。

国道264号線・バイパスと旧道の分岐点付近

 ここで路面電車は国道264号旧道に折れていた。もちろん、当時はバイパスが無かったので、旧道は肥前川上方面に向かうメインルートだった。とは言え、一面田んぼだらけだったと思うが・・・。なお、この一帯の地名は「高木瀬町」であり、この付近に高木瀬電停があったかもしれない。

国道264号線旧道・旧三本松電停

 「三本松」バス停付近。この付近に「三本松電停」があった可能性が高い。道幅も、路面電車が走っていたことを考えると、当時とあまり変わらないのではないだろうか。

佐賀市大和町尼寺(にいじ)・旧尼寺電停付近

 管理人の祖母は、この付近にあった電停をよく利用していたらしい。ということは、尼寺電停の可能性が高い。実際、証言の通り、旧道から少し入っていったところに佐賀銀行があった。この佐賀銀行は、路面電車が走っていた当時からこの場所にあるそうだ。当時を知るためには、とても重要な手がかりである。

長崎自動車道佐賀大和インターチェンジ付近

 この辺りから勾配がややきつくなる。高木瀬町で分かれた国道264号バイパスと合流し、長崎自動車道佐賀大和インターチェンジに至る。資料から考えると、この付近に電停は無かったと思われる。

終点・肥前川上電停

 佐賀市民に「川上」という地名を言うと、たいてい「あぁ、あの赤い橋(官人橋)の・・・」とか、「5月は鯉のぼりで有名な所よ。」という答えが返ってくるだろう。しかし、佐賀電気軌道の肥前川上駅は、そこの少し手前、現在の「ゆーとぴあさが健康ランド」付近にあった。この場所は峠の最高地点で、確かに、ここより北に電停を設けると、一度峠を越えなければならず、勾配に弱い鉄道にとっては不利である。

 ちなみに、官人橋は下の写真の橋である。

<調査を終えて>

 残念ながら、やはり当時の痕跡は残っていなかった。しかし、佐賀電気軌道を今に伝える文献やホームページは少なく、非常に手がかりがつかみにくい。幸い管理人の祖母が、当時のことを証言してくれたので、路面電車が走っていたルートを辿ることができた。佐賀電気軌道の廃線跡を写真を交えて紹介しているページは、おそらくここだけと思われる。その点で意義のある調査だったと思う。

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