寝台特急「はやぶさ」&夜行快速列車で行く中学校卒業旅行

寝台特急「はやぶさ」&夜行快速列車で行く中学校卒業旅行

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管理人が中学校卒業旅行として東京や山陰に行った時の旅行記です。

4月4日(火)・餘部&四国編

 

 餘部鉄橋だった。乗客からは歓声が上がった。列車は鉄橋を渡り終えると、餘部駅に入線。運転士に青春18きっぷを見せ、ホームに降り立った。おばちゃんグループや夫婦、家族連れなど、降り立った人たちの人員構成は様々だった。

 餘部駅には駅舎が無く、公衆電話や駅名表示板、餘部鉄橋を紹介する看板があるだけだった。ホームの途中には、撮影ポイントへ行く為の道があった。砂利まで敷かれており、きちんと整備してあった。

   あるウェブサイトに寄れば、撮影地点まで徒歩5分とあったが、実際は1分程度で着いた。既に5、6人の男女がベンチに腰を下ろしており、それぞれ何かを話しあっていた。中には高そうなカメラを持った初老の男性もいた。この撮影地は重機が入れないので、どうやら人力で造ったらしく、親切に設置してあった時刻表には、スコップが立てかけられていた。この撮影地を造ってくれた方には感謝しなければならない。

   次に餘部鉄橋を通過する列車は、16:11発の豊岡行きだ。しばらく列車が来ないことが分かると、大部分の人々が鉄橋周辺の散策に出かけていった。撮影地に残ったのは、私と先ほどの初老の男性、それに中学生ぐらいの少年、初老の夫婦だけとなった。初老の夫婦はカメラを持っていなかったようで、ただ見ているだけであった。

 ここからは鉄橋だけでなく、海の景色もよく見えた。今日の日本海は荒れ気味で、ザップーンという波の音がこちらにも聞こえてきた。

   鉄橋の上にも、白い靄がかかり始めた。曇天というあいにくの天気だが、それが逆に餘部には相応しい天候のようにも思えた。

   16:10頃、餘部駅のホームから列車到着のアナウンスが聞こえてきた。その直後、ガタンゴトンと音を響かせながら列車が到着。わずかの停車の後、列車はゆっくりと餘部鉄橋の上に姿を現した。

 初老の男性も、中学生ぐらいの少年も、そして私も、一斉にカメラを向ける。列車が橋の中間ほどに来た時、最初の1枚を撮影。

 本当はトンネルも一緒に入れたかったのだが、そこまで頭が回らなかった。先ほどの初老の男性が、

「今の列車は、さっきの折り返し(私が乗ってきた浜坂行き)ですよね?元加古川線の車両だったけど。」

と聞いてきた。車両の構成と時間的に間違いなさそうなので、

「そうみたいですね。」

「『あさしお』が走っていた頃は、鉄橋の上には防風ネットも無くて撮りやすかったんだけど、今は障害物が多くて・・・。」

と、私が知らない時代の話もしてくれた。確かに、鉄橋上の防風ネットは撮影者にとっては邪魔であるが、

「やはり、去年の『いなほ』脱線事故の影響でしょうか・・・。」

と私は聞いたが、その男性はそこまで詳しく知らないようで、

「そうかも知れない。」

と返答された。だが、過去にはこの鉄橋からの列車転落事故が発生しており、もしかすると防風ネットの設置はそれ以来のことなのかもしれない。

 時間があるので、私も他の人と同様に急な坂道を下ってゆく。ホームの端には、1959年(昭和34年)の餘部駅開業の経緯について解説したプレートと壁画があった。プレートによれば、餘部鉄橋自体は明治の生まれだが、餘部駅の開業は遅く、駅が無かった頃の地元の人々は餘部鉄橋を渡り、4つのトンネルを抜けて鎧駅まで歩いて列車に乗っていたという。1958年(昭和33年)に、餘部小学校の児童達が当時の兵庫県知事に駅の建設を願う要望書を書き、それをきっかけとして駅の建設が始まったという。駅の建設には、小学生も一緒に海岸から重たい石を運んでホームや駅までの道路を建設したという。餘部駅はこうした苦労の末に造られた駅というこということだ。

 

   餘部鉄橋についての解説もしてあった。

   着工は1909年(明治42年)12月で、完成は1912年(明治45年)3月1日。この鉄橋の種類は「トレッスル橋梁」というそうで、このタイプの橋としては、この鉄橋が日本一の規模を誇るという。高さは41m45cm、橋の延長は310m59cm。エピソードも書いてあり、橋脚の鋼材はアメリカから九州の門司に送られた上で別の船に積み替え、さらに餘部沖でハシケに移して陸揚げしたという。通常は荒れがちの日本海はこの陸揚げ作業中はナギが続いて無事作業を完了できた、という幸運なエピソードもあるという。また、危険な作業をする作業員には巨額の保険金も掛けられたそうだ。その時の難工事で完成した鉄橋が90年以上経った今でも現役というのは、何よりも鉄道を通そうとかんばった多くの人々の願いが、それだけ強かったからではないだろうか。

   この餘部鉄橋は今年度中に架け替え工事が開始され、PC橋(コンクリート橋)になってしまうという。確かに現在の鉄橋は老朽化してきているし、架け替えた方が多少風が強くても定時運行を行いやすくなるだろう。だが、この鉄橋の架け替えに反対する声や惜しむ声も多く、鳥取県議会では、寝台特急「出雲」の廃止に関連して、資金提供をやめるという動きも出ている。ちなみに、これには、餘部新鉄橋の完成による定時運行の確保によって、寝台特急「出雲」を存続させようというものであり、すなわち、「出雲」が残れば鉄橋を架け替える、「出雲」が廃止になれば鉄橋架け替えをしない、というもののようである。

 個人的には、どちらにも残って欲しいのだが、「出雲」存続の件だけで考えると、今在る交通機関を最大限に活かし、その中でも観光資源の発掘や振興を盛んに行おうとしている山陰地域の底力を感じる。どこぞやの必要も無い新幹線を造れと叫びまくっている県知事達に聞かせてやりたい話だ。

 餘部鉄橋は、もはや取り壊されるしか道が無いのだろうか。もし勾配や土地の問題がクリアできれば、わざわざコンクリート橋などというどこにでもあるような風情も何も無いような建造物を建てるより、少し離れた平地の部分に線路を敷けばいいと思う。つまり、現在の鉄橋はそのままにして、山陰本線の一部区間で新線を建設すれば良いという話だ。そして、鉄橋にトロッコ列車を走らせれば新たな観光資源にもなろう。現に山陰本線の一部区間では大規模な線路の付け替えを行い、残った線路にトロッコ列車を走らせて好評を博しているところもある。無論、需要や列車本数の観点から「無謀だ。」と一蹴する人もあろうが、そのような主張をする人は一度も餘部を訪れていない人たちに違いない。

 明治の奇蹟・餘部鉄橋。その美しさや威容は、いくら説明してもそこを訪れた人にしか分からない。

 急な坂道を下ってゆく。コンクリートで舗装されてはいるが、ガタガタしていて時々転びそうになった。坂の途中でまっすぐに延びる餘部鉄橋を撮影。重機も技術も今に比べれば未発達だった当時の技術力で、よくここまで鉄橋を造れたものだと感動してしまう。

  

   坂は終わり、橋の足元を歩く。橋の足元のすぐそばまで住宅街になっていた。橋の真下から、鉄橋を見上げる。

     1986年(昭和61年)12月28日、この橋の上から、回送中のお座敷列車「みやび」の14系客車が強風にあおられて転落し、乗っていた車掌と客車が直撃した橋の真下のカニ工場で働いていた従業員5人の計6人が死亡するという痛ましい事故が発生している。国鉄最後の大惨事とも呼ばれているが、強風による脱線は去年の年末にも発生している。鉄道各社は事故が起こるたびに最悪の場合を想定してダイヤや運転規則の見直しを行っているが、それでもこのような事故は絶えない。餘部鉄橋事故の場合は、運行休止の規定以上の強風が吹いていたにも関わらず運転士が列車を運行させていたという人為的ミスが指摘されているが、人間がいくら最悪の場合を想定したと言えど、自然はそのような想定は甘いと言うかのように、さらに最悪の事態を発生させる。自然環境が激変している今、強風や大雨による「最悪の事故」を防ぐのは、ますます難しくなってきていると思う。

 また、日本の鉄道会社は世界一正確だと言われており、強風や大雨が多少強くても、「定時運行」という面子にかけて運行してきたことが多いと思う。それも今までに発生した事故の一因でもあるだろう。

 だが、必ずしも鉄道会社だけが悪いとは言えないのではないだろうか。列車が遅れると、定時運行をしていることが常識だと思っている乗客が、列車の運転見合わせに腹を立てて駅員に詰め寄ったり、車掌に罵声を浴びせたりする場面を目にする。これは明らかに乗客に非があると思う。数年前に東海地方で大雨が降った際、多くの新幹線が駅と駅の間で停まって大勢の乗客が缶詰になったことがあった。数時間後に運行が再開されて駅に降り立った彼らの第一声は、「何で駅で降ろさなかったのか。」というJR東海への不満だった。中にはNHKのカメラに向かって言いたい放題言っていた人もいた。だが、その時点で列車を走らせていたら、走行中の振動による土砂崩落が発生したかも知れない。雨風で列車が脱線していたかもしれない。それに駅で降ろせと言っても、東海道新幹線の過密ダイヤではどうすることもできないだろうし、一斉に動かすとさらに危険度が増す。鉄道会社は神様では無いのだから、緊急時や災害時が発生した場合に、乗客は鉄道会社の指示に従って冷静に行動し、列車に乗ったときは遅れる可能性があること、特に悪天候時はその可能性が増すこと、そして無理に列車を動かすよう詰め寄るような、全て鉄道会社に責任があるかのような行動を取らないことなどをわきまえた上で鉄道を利用すべきだと思う。

 次の列車が来るので、再び坂道を上って行く。一旦ホームに行って駅名表示板を撮影。

 先ほどの撮影地に戻ると、初老のカメラマンの男性以外は別の人たちに変わっていた。若い夫婦もいた。16:55過ぎ、浜坂行きの各駅停車がトンネルから顔を出した。私は早速カメラを構えて撮影したが、慌てていたのでご覧の通り、デジカメなのにピンボケし、その上ぶれた写真になってしまった。 

   慌てていたというのは言い訳だが、実はこの列車に乗らなければこの後の計画が全て狂ってしまうのだ。急いで坂を駆け下り、何とか列車に間に合った。だが、乗降客が多かったので、それほど急がなくてもよかった。

 平日の夕方なので、もう少し混雑してもいいのではないか、というくらい車内は閑散としていた。浜坂駅には17:08に到着。

   駅のそばには、蒸気機関車の給水塔らしき煉瓦造りの建物があった。

 6分の接続で鳥取行きの各駅停車に乗り換え。鳥取寄りは黄緑色の車両で貫通ドアでは「因幡の白うさぎ」をイメージしたと思われるうさぎが踊っていた。2両目はタラコ色の車両だった。

 駅のホームの時刻表示は今でもアナログ方式のままだった。

 列車は17:14に浜坂駅を発車。20分ほど行くと、右手に日本海が見えてきた。海は荒れていて、高い波が海岸に打ち寄せていた。遠くには、白く光る点がいくつも見えた。あくまでも想像だが、これはイカ釣り漁船の灯りではないだろうか。2003年(平成15年)の冬に北海道に行った際、函館山ロープウェイから見えた海上の灯りと似ていたからだ。

 列車は途中、タラコ色のキハ33形をすれ違った。キハ33形に乗っている乗客は、結構多かった。鳥取市の学校や職場から帰ってくる途中なのだろう。

 列車は高架橋を走るようになった。18:06、列車は鳥取駅に到着。

 う〜ん、似ている。何が似ているのかと言うと、私が住んでいる佐賀市と町並みや駅の構造が似ているのだ。確かに共通点も多い。人口はどちらも10〜20万人程度で、佐賀県と鳥取県で比べても人口は両県とも100万人以下と少ない。面積も狭い方だ。佐賀駅と鳥取駅を比べると、どちらも高架下駅でホームは2面4線。中央改札口もある。今夜、岡山で合流する予定の豊之國男様(JourneyExpress web siteの管理人さん)の情報によれば、高校の名前も「佐賀」や「鳥取」の次に方角が来る学校があるそうで、何から何まで似ている。このくらい似ていれば、そのうち姉妹都市を提携するかもしれない、と密かに期待する。

 駅弁を買うために途中下車。改札口から出て左手に行くと駅弁屋があった。

「へい、いらっしゃい。」

と駅弁屋のおじさん。どれにしようかな〜と迷って、佐賀玉屋デパートの駅弁フェアで売られていた「かにめし」(980円)を発見。駅弁の包み紙(実際には厚紙)の絵も気に入ったので早速購入した。

 改札口前の天井には、大きな傘が飾ってあった。結構豪華な装飾だった。

 時間が無いので急いでホームに行き、因美線の智頭行きキハ47形に乗車。タラコ色の気動車で、ワンマン運転設備を設置していないのか、車掌が乗務していた。この後、私は因美線と津山線を使って中国山地を越え、岡山まで出て高松まで往復することにしている。

 既にボックス席は満席となっていたので、ドア近くのロングシートに座った。18:24、列車は鳥取駅を発車。驚いたのは、いきなり車内放送のオルゴールが流れてきたことだ。どうやら本当にワンマン運転設備を設置していないらしい。まさかこんなところでオルゴールを聞けるとは。意外なことだったが、乗務している車掌さんの心遣い(?)に心から感謝した。

 途中の駅で、智頭急行の気動車とすれ違った。鳥取まで乗り入れているようだ。19:13、列車は終点の智頭駅に到着。20分ほど時間があるので、一旦途中下車。駅舎は屋根瓦の木造だった。駅前に出たとき、少し小雨が降っていたので、駅舎を素早く撮影して建物の中に戻った。

 次は津山行きの快速列車に乗らなければならないが、折り返しで到着したのはキハ120形だった。

 残念に思っていたが、今朝乗った関西本線のキハ120形とは違う300番台で、車内の一部がボックス席となっていた。ボックスは4つあり、一つは孫とその祖父母のグループ、もう一つは若いカップル、そして私が座るボックスで、あと一つは空席だった。

 19:31、列車は智頭駅を発車。真っ暗闇の山の中を進んでゆく。快速列車なので、途中20分以上の停まらないこともあった。その間、私は鳥取駅で買った「かにめし」を食べる。酢が程よくしみ込んでいて味は美味しかったが、カニの身がやや少なかったように感じる。

 キハ120形は前面展望が良いので、運転席横で前方風景を眺める。真っ暗な山の鉄路を列車の明かりだけが心細く照らしている。何か出てきそうなくらいの山奥だ。おまけに雨も降っている。もし乗客が誰も乗っていなかったら、運転士はさぞ心細かろうと心配してしまう。山を越えると次第に街灯や人家が増えてきた。終点の津山駅には20:35に到着。

   5分の接続で岡山行きのキハ47形に乗り換え。

 車内は空いていて、ここでも1つのボックスを独り占めできた。20:40に津山駅を発車した。20:53に“珍駅舎”として有名な亀甲(かめのこう)駅に到着。

   駅舎は駅名通りで、目が時計になっていたことに笑ってしまった。22:00に終点の岡山駅に到着。

 岡山駅では一旦途中下車して、園部駅でできなかった快速「マリンライナー」の指定席変更を行った。と言うよりも、高松⇒岡山で取っていた指定を、岡山⇒高松に変更しただけである。再び駅に入場し、快速「マリンライナー69号」が発車を待つ14番乗り場に行く。既に電車は入線していた。

   普通車指定席は2階建て車両の1階で、カラフルな座席が並んでいた。

 座席に座ると、目の高さにホームの床が見えた。

 客層はお勤め帰りのサラリーマンが多く、中学校の社会科で学んだように岡山と高松の越境通勤が盛んに行われていることを再確認した。ちなみに、鉄道ファンが最も得意な教科は社会科らしい。やはり時刻表をよく見たり、旅に出たりすることが多いからだろう。私も社会科大好き人間である。しかし、数学はダメだ。

 電車は22:16に岡山駅を発車。2階建て車両には動力が付いていないらしく、車内はとても静かだった。この電車は23:09に高松駅に到着するが、私はその直後の23:15高松発の快速「マリンライナー」で岡山に戻ることにしている。高松滞在時間は約6分。今回は計画がぎゅうぎゅう詰めなので仕方ない。ちなみに、私が四国に行くのはこれが初めてだ。もちろん、瀬戸大橋も初めて通る。

 児島駅に到着した。ここでJR西日本とJR四国の乗務員が交代した。児島を発車すると、いよいよ瀬戸大橋だ。トンネルを抜けると、真っ暗闇の瀬戸内海の上に飛び出した。手前の岸壁(本州側)の街明かりと向こう岸壁(四国側)が同時に見え、電車が橋を渡るにつれて本州側の街明かりは遠ざかり、四国側の街明かりが近づいてきた。橋を渡り終え、電車は四国に上陸。坂出に停車し、23:09、終点の高松駅に到着した。

   高松駅で早速途中下車。記念に、と入場券を買う。面白いことに、券売機で買った入場券は、券面がオレンジではなく水色だった(九州ではみどりの窓口で使用されているタイプ)。「マリンライナー」の乗客たちの列はまだ消化されておらず、改札口周辺を右往左往している。一体どれくらいの人々が毎日本州との間を往復しているのだろうか。

 わずか1分の途中下車の後、再びホームへ。次の「マリンライナー」は6番乗り場だそうで、今まで乗ってきた編成の折り返しではないらしい。

 もう一つ右側のホームには、特急形の2000系が停車していた。

 続いて、今から乗る5000系(右)と今まで乗ってきた5000系(左)を撮影。今から乗る右側の5000系は、たった3両である。それもそのはず、この電車が岡山行きの最終便である。

 電車に乗る前に駅名表示板と5000系のロゴマークを撮影。高松駅の駅名表示板は、これまた独特なもので、東京の地下鉄のように色別の○でそれぞれ行き先が分けられていた。ロゴマークは昔話の「桃太郎」をイメージしたものだった。

 早速電車に乗車。ダブルデッカー以外は、JR西日本の新快速でおなじみの223系とほぼ同じ車両だった。岡山行きの指定は取っていないので、自由席に座ることになった。空いている座席は少なかったが、進行方向左側の座席を確保できた。23時を過ぎているのに、電車がこれほど混んでいるとは・・・。

 電車は23:15に高松駅を発車。香川県内の駅に停まりながら、岡山へ向かう。さっきまで小雨だった雨はいよいよ本降りとなり、ホームのアスファルトを思いっきりぬらしていた。坂出駅では、同窓会か何かの帰りと思われる中年男女のグループが、名残惜しそうに手を振って分かれていた。坂出駅を出発すると高速道路が寄り添い、合流して走り始めると間もなく海上を走り始めた。前方の風景を見るために乗務員室の後ろへ。電車のライトが橋や線路を照らしながら、瀬戸大橋を渡って行く。

 車窓左手には、本州側の街明かりが見えた。それがだんだん近づいてきて、1つ1つが判別できるくらいになると電車はトンネルに入り、本州に上陸。児島駅では往路とは反対にJR四国からJR西日本へと乗務が引き継がれた。 

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