寝台特急「はやぶさ」&夜行快速列車で行く中学校卒業旅行

寝台特急「はやぶさ」&夜行快速列車で行く中学校卒業旅行

I

管理人が中学校卒業旅行として東京や山陰に行った時の旅行記です。

4月5日(水)・旅の終わり編

 岡山県内を走っているとき、日付が変わった。私は「マリンライナー」の車内で16歳の誕生日を迎えた。

 岡山には0:19に到着。山陽本線下りホームに移動し、夜行快速の「ムーンライト九州号」を待つ。この「ムーンライト九州」の車内で、私は先輩でもあり、相互リンク先の管理人様でもある豊之國男様と合流する予定となっている。ホームには大勢の利用客が列車を待っている。

 ところが、「ムーンライト九州」は入線時刻になってもやって来ない。駅の放送によれば何らかの事情により遅れているらしい。先発の倉敷行きも4、5分遅れて発車した。大雨の影響だろうか。6、7分遅れた0:31頃、EF65形機関車に牽引された「ムーンライト九州」がようやく入線した。

 待ちかねた乗客が、ぞろぞろとドアの前に並ぶ。ドアが開くと、一斉に乗り込み、“今夜の宿”を探す。私は豊之國男様に指定券の購入を頼んでいたので、予め渡されていた券面を見て席を探す。5号車で自分の席と豊之國男様を見つけた。豊之國男様は既に就寝されていたが、小声で「こんばんは〜」と話しかけると、すぐに起きられた。本来は豊之國男様と全行程を一緒に行く予定だったが、私の春休みの日程がある事情によって大幅に狂い、そのため深夜の岡山、厳密に言えば「ムーンライト九州」の車内で落ち合うことになったのだ。豊之國男様とは1時間程度旅行中の出来事を交換し合った。大部分の乗客は眠りについており、私達も明日の朝が早いので寝た。

 翌朝。厚狭到着を告げるアナウンスで目が覚めた。時刻は午前5時頃だったと思う。実質3時間半ほどしか寝ていない。「もうすぐ着きますよ。」と豊之國男様を起こす。

 下関到着前にデッキへ移動。ところが、車内放送によれば列車は4分遅れて運行しているそうだ。遅れを完全には取り戻せなかったようだ。下関到着直前、上りの始発電車がドアの窓を通り過ぎていった。実は計画だとこの電車に乗らなければならなかったのだ。計画では、ここで一時的に豊之國男様とは別々の行動を取り、私は小野田線の制覇へ、豊之國男様は杵築の撮影地で列車の撮影を行う予定だった。しかし、列車が遅れた以上、この計画は実行不可となった。また、豊之國男様も悪天候が予想されたので杵築での撮影は断念され、代わりに大分方面へ直行することにした。

 空が少し明るくなった頃、列車は下関駅に到着。

 「ムーンライト九州」の機関車付け替えは撮影せず、そのまま小倉行き電車が待つホームに行く。既に415系が発車を待っていたが、何とロングシートが緑色だった。今まで私が見たのは青と赤だけだったので、緑タイプを見たのは初めてだった。もしかすると黄色タイプも存在するかもしれない。

 5:53に下関を発車し、6:07に小倉着。ついに九州まで帰ってきたのだ。この後、中津行きの415系に乗り換え、日豊本線を南下した。ロングシートというのが辛かったが、E231系に比べれば断然マシである。雨は降ったりやんだりを繰り返していた。7:12に中津に到着した。着いて数分後に485系「にちりん」が入線。晴れの時でも雨のときでも、レッドエクスプレスの赤が鮮やかに見えるのはなぜだろうか。不思議だ。

 中津と言えば、1万円札でおなじみの福沢諭吉の出身地である。駅のホーム間連絡通路にも「福沢諭吉“先生”」という札とともに、福沢諭吉の像が展示してあった。

金色で塗られているのは、やはりその威光を示したかったからなのだろうか。途中下車して食料を調達した後、私はこの福沢諭吉“先生”を拝んでホームへ。傍目から見れば、相当な貧乏人に見えたに違いない。

 7:50発の柳ヶ浦行きに乗って、旅を再開。車両形式は415系だったが、こちらはセミクロスシートだった。車端部のボックス席に座った。8:08に柳ヶ浦駅に到着。10分の接続だが、ちょっとだけ途中下車。

 下車印も押してもらった。面白いことに、柳ヶ浦駅の下車印は「ヶ」が省略されて「柳浦駅」となっていたのだ。

 さて、次の電車は何かな〜と待っていると、小倉寄りにある離れた留置線にライトをつけた「815系」がいるのを発見。嫌な予感は的中し、8:15頃、大分行きの815系が入線した。この旅行記の始めでも書いたように、この815系はロングシートなのだ。E231系やキハ120形のそれとは格段に良いが、ロングシートはロングシートである。柳ヶ浦駅で乗った人は多く、あっという間に満席になった。その後、私は旅の疲れから寝てしまったらしく、別府あたりまでうとうとしていた。次の目的地は東別府駅近くの浜脇温泉である。

 東別府駅には9:17に到着。東別府駅には古い木造の駅舎が残っていた。

 駅前の桜は散り始めていた。その下の坂道を下り、大通りへ。豊之國男様によれば、ここにはかつて路面電車が走っていたそうだ。交通量の多さと自動車のスピードにはビックリだったが、豊之國男様によれば九州でも上位に位する交通量なのだそうだ。そういえば、数ヶ月前には時速百数十キロでこの道路を走って大分空港まで行き、警察に逮捕された人もいた。ここで時速百数十キロとは恐ろしい・・・。バスの運転も荒く、バス停直前で急ブレーキをして停まっていた。

 この近辺には温泉が点在しているが、その中でも豊之國男様のおすすめである「日の出温泉」へ向かう。徒歩10分程で温泉に到着した。

 入浴料金100円を払い、館内に入る。豊之國男様は別府近辺の温泉が共同で発行しているパスポートのようなものを持っていた。パスポートはなかなか本格的なもので、その中には細かい規定や階級などが書かれていた。

 浴室と更衣室は一緒になっていて、浴槽は熱い湯と丁度良いくらいの湯に分かれていた。最初は私達以外に誰も入っていなかったが、「丁度良いくらいの湯」につかってしばらくすると地元の方と思われるおじいちゃんや温泉巡りの途中と思われる方が入ってきた。そのおじいちゃんは、何十年も温泉に入り続けているそうだが、今の時刻は10時前。午前中から温泉に入るとは、よほど温泉が好きで愛着を感じられている方なのだろう。そのおじいちゃんはその時開催されていた春の選抜高校野球などの話をされた後、私達より早く出て行かれた。

 さて、30分も入っているとさすがにこちらも疲れてきたので、湯船から出る。着替えて再び外へ。雨は既にやんでいたが、厚かった雲もいつのまにか薄曇りになっていた。東別府駅に戻る。次の電車が来るまでは時間があるので、駅舎内を見学する。

 その時、窓口に居た駅長さんが声をかけてきた。

「この駅はねぇ〜、あの兄ちゃん、何だっけ。」

「関口(知宏)さんですか?鉄道12000kmの。」

「そうそう。その人が来た時の写真がそこに掲示してあるから、ゆっくり見てってね。」

 駅舎の中央付近に立てられていたパネルには、確かに関口さんが写った写真が貼られていた。そういえば・・・と、中継されたあの日の朝を思い出す。

 駅舎はリニューアルされており、白い壁と黒い柱がそれぞれの色をより鮮やかにさせていた。だが、駅の掲示板は「告廣時臨(臨時広告)」と右読みの旧字体で忠実に再現されていた。ホーム側の軒下では大きな鯉幟が泳いでいた。駅前の桜、5月の鯉幟、と東別府駅には季節を感じさせるものがたくさんあった。

 10:32、佐伯行きの815系が入線した。車内は満席で立つことになった。豊之國男様は大分の出身なので、大分の情報には非常に詳しく、別府と大分を結んでいた路面電車が廃止される原因の一つとなった場所も教えていただいた。そこは日豊本線からも見ることが出来る場所で、ここで土砂崩落が発生したそうである。確かにこの日豊本線も目の前の国道も、崖のようなところを走っている。おそらく日豊本線にも被害が出たとは思うが、その土砂崩れから10年以上経った1972年(昭和47年)、交通量増加による危険回避に為、大分県警の要請を受けて、廃線となった

 豊之國男様は大分市内の散髪屋に行くということで、西大分で別れ、13時過ぎに大分駅で待ち合わせ、ということにした。その間私は臼杵駅まで往復することにした。大分に着くと、大部分の乗客が入れ替わり、その間に座席を確保した。電車は大分駅を発車すると、数年後に電車が走ることになる日豊本線高架橋の工事現場の横を通り抜け、大分県内を南下。途中の牧駅構内の車両基地には、485系の中間車や元グリーン車連結の475系が停車していた。今では死語となった「タウンシャトル」という文字を掲げた建物もあった。

 11:35、臼杵駅に到着。

   臼杵駅にはホームに石仏の頭部や城壁を模したものと思われるベンチ兼飾りがあった。

 駅の撮影をしていると、上りの485系5連が入線した。九州の485系はあと何年活躍してくれるのだろうか。

 改札を出てすぐ、「おや?」とあるものに気がついた。何と金魚の入った水槽が置かれていたのだ。

 駅の方に生き物好きの方がいらっしゃるのかどうかは分からないが、駅の待合室で生き物を飼うという発想は面白いと思う。そういえば、久留米駅にはクジャクがいるし、肥前鹿島駅では有明海の干潟に生息しているムツゴロウを飼っていると新聞で紹介してあった。JR九州の方には、飼育好きの方が多いのかもしれない。

 駅から出て、駅前の臼杵石仏のレプリカを撮影。臼杵は石仏の街として知られている。

 駅舎を撮影した後、

 改札に入る。4分ほど遅れて、杵築行きの815系が入線した。今度は日豊本線を北上し、工事中の高架橋の横を通ると、

 程なくして大分駅に到着した。豊之國男様はお待ちかねの様子だったが、私はまだ昼食を食べていなかったので、1番乗り場のうどん屋へ。一番安い「かけうどん」を注文し、おばちゃんが手際よく盛り付けるとすぐに出てきた。これが美味しい。鳥栖駅のうどんが今までで一番おいしいと感じていたが、大分駅も鳥栖駅と変わらないくらい美味しかった。今度大分駅を訪れる際は、また立ち寄ってみたいと思う。

 その後、駅の近くにあるデパートに行く。目的は大分駅舎を眺める為だ。何も駅舎を眺めにデパートに行かなくても・・・と思われるかも知れないが、先ほど書いた高架橋に列車が走るようになると、この駅舎も取り壊される運命にある。デパートは大きな建物で、多くの人々が歩き回っている。私の地元にある佐賀玉屋の何倍ぐらいあるだろうか。

 5階か6階だったと思うが、ミニラウンジのような所から大分駅を見ることが出来た。周辺には何人かの人がいたが、大分駅だけを見ている人はいなかった。

 佐賀駅に比べれば、ずいぶん立派に見える駅前だが、ここも駅舎解体と同時に無くなるという。だが、高架化の効果は大きい。例えば、駅前にはバスターミナルが建設され、ホームも1線増えるそうだ。また、駅近くの踏切を中心に列車の通過以外にも入れ替え作業などで長時間に渡って閉まっていることが多かったそうで、踏切がなくなることで街の活性化にも繋がるという。駅に戻って6・7番乗り場へ。去年の夏にここを訪れた際には、たくさんの電車や気動車が停車していたが、それらは老朽化による廃車や基地の移動などですでに無く、錆びた線路だけが残っていた。

 さて、6・7番乗り場に来たのは、わざわざ留置線跡を見に来たわけではない。この後は久大本線と日田彦山線を経由して佐賀に帰るので、次の久大本線列車に乗るために来たのだ。もともと日田彦山線に乗る予定は無かったが、今朝の計画変更により小野田線制覇を諦めたので、日田彦山線の未制覇区間である夜明〜田川後藤寺間乗車に変更したのである。

 列車を待っている時、留置線跡を挟んだ向こう側に謎の小屋があるのを発見。

   鉄道なので「進路はよいか」は理解できるが、「S当りはよいか」って一体・・・。謎を2乗したぐらいの建物である。

 やがて、由布院行きのキハ220形が入線。

    始発なので座席は確保できたが、残念ながらロングシート。これで山間部の路線に乗るのはきつい。また、それほど混む時間帯でもないのに、お客様が次から次へと乗ってくる。大分県の人は鉄道をよく利用するのか、それとも車両不足か。いずれにしても、ちょっと改善して欲しい点である。

 列車は14:08に大分駅を発車。少し南に行って日豊本線と分かれた。久大本線用の単線高架(工事中)の横を通り抜け、住宅街が途切れると低めの山が近寄ってきて、線路はその山々の間に分け入って行く。ロングシートは外の風景が見にくいので、乗務員室後ろで前方風景を眺める。黄色い菜の花や散り始めの桜。列車は春真っ只中の久大本線を駆け抜ける。

 15:17、南由布駅に到着。この駅ではキハ58形+貨車3両+キハ65形のトロッコ列車と行き違いを行った。ちらっと見えたトロッコ列車車内の座席モケットは、青と黒のチェス柄だった。去年乗った時は違う柄だったが、今回の“冬眠”期間中に張り替えたのだろうか。

 晴れた日ならば、列車から由布岳が見えるはずだが、あいにくの曇り空で麓の山でさえぼんやりと霞んで見えた。15:21、由布院駅に到着。

 駅舎を出る。駅前では人が集まっていて、中には高そうなビデオカメラを構えた人もいた。何かあるのだろうか、と不思議に思っていると、遠くから白いものが走ってくるではないか。何かと思えば馬車である。おそらく上の駅名表示板に書かれている「辻馬車」というものだろう。

 それにしても、大都市が近くにあるわけでもなく、通っている交通機関は普通列車と1日数往復の特急というローカル線とつい最近まで片側1車線だった大分自動車道だけなのに、この湯布院の街はどうやって発展してきたのだろうか。黒川温泉のように、交通機関がバスしかない温泉地もある。だが、駅に置いてあるパンフレットには、これらの温泉地のパンフレットがずらりと並んでいる。この湯布院や黒川温泉には、いくらお金や時間を使おうとも観光客が行きたい、と思うような魅力がたくさんあるからに違いない。湯布院で言うと、この「辻馬車」もその一つだろう。JR九州もそれらを魅力的に感じているから、特急「ゆふいんの森」や観光バスを運行させているのだと思う。

 対して、博多駅から1時間強の、佐賀県にある嬉野温泉はどうか。嬉野温泉がある嬉野市には鉄道が無い。そのため、現在国やJR九州、佐賀県及び長崎県が建設を推進している“新幹線”が欲しいと叫んでいる。ところが、片側2車線の立派な高速道路が市内を走っているにも関わらず、嬉野温泉行きの高速バスがあるわけでもなく、長崎行きの高速バスでさえ大部分が通過していくという有様だ。当然、今の嬉野温泉に湯布院や黒川温泉並みの魅力があれば、周辺観光地と直結させて同じような観光バス路線が開設されているに違いない。だから、新幹線が欲しいという前に、まずは我が町の現状を振り返って欲しいと思う。佐賀新聞の投稿記事を見る限りでは、嬉野市民にも猛烈な反対派が大勢いるようだ。市民までもがいらない、という新幹線を推進して何の意味があるのか。推進している国や県、JR九州、各推進自治体の姿勢を疑ってしまう。

 「辻馬車」が行ってしまうと、温泉街に向かう人、お土産店に行く人、列車で帰るために駅に行く人と群集はばらばらに散らばった。私は豊之國男様といっしょにお土産店へ。だが、恥ずかしいことに今の残金は36円・・・。ここから佐賀駅までは飲まず食わずの旅となる。幸い、大分駅で買っていた飲み物はあるので、しばらくは大丈夫なのだが。なので、私は先に外に出て、駅舎を撮影。

 豊之國男様と合流して、再び駅に戻る。次の列車は2番乗り場から発車するということで2番乗り場に行くが、何とさきほどのキハ220形と同じではないか!時刻表でも別々の列車として表記されているし、先ほど大分駅で見た方向幕も「由布院」となっていた。一体これはどういうことなのだろうか。せめて時刻表ぐらいは「直通」という案内をして欲しいものだ。というわけで、この後は日田駅までロングシートの旅となるが、困ったことにトイレも付いていない。出発前にトイレに行こうと思っていたが、駅構内には見当たらない。すると、5人ほど乗っていた他の乗客たちが「トイレは駅の外にある。」と垣根の間から少し見えていたトイレの建物を口々に指差して教えてくれた。発車時間までの時間がわずかなので、急いでトイレに行った。

 16:17、列車は由布院駅を発車した。途中の北山田駅には、不思議な駅舎があった。

 何と、2階にドアが・・・。しかもドアを開ければ下に転落してしまう・・・。おそらく、かつては2階からもホームに行けるように橋があったと思われるが、後に取り外されたのだろう。

 17:22、列車は終点の日田駅に到着。

 時間があるので、途中下車した。日田駅の駅舎はコンクリートの2階建て駅舎だった。

 再びホームに戻り、日田彦山線列車の到着を待つ。17:30、折り返し列車が日田駅に到着した。乗る人は少なく、簡単にボックス席を確保できた。車両形式はキハ147形の2両編成だった。驚いたのは、ホーム側だけではなく、その反対側のドアも開いていたことだ。下手すれば乗客が転落してしまいそうだが、昔話でしか聞いたことが無いドアなし客車とどこか共通点があるように思えた。昔の列車はドアなしか走行中でもドアの開閉が可能だったそうで、夏はデッキで涼んでいたという話をよく聞く。現代の列車で走行中にドアが開くと、必ず大問題になって鉄道会社の社長が頭を下げるということが多いが、それが停車中であっても新聞のネタにされかねない。だが、ここではそれが当たり前なのだ。都会と田舎。時間の流れに大きな違いがあると言われているが、未だに非電化路線である日田彦山線には、のんびりと客車列車が走っていた時代の名残が数多く残されているように感じる。

 17:34、列車は日田駅を発車。光岡(てるおか)、夜明と停まると、列車は右手にカーブして久大本線と分かれた。列車はどんどん勾配を上っていき、しばらくすると眼下に人家や田んぼが見下ろせるくらいの所を走るようになった。

 駅に着くたびに乗客は降りていき、さらに山奥へ入っていくと、平日の夕方だというのに1両あたりの乗客は10人を割っていた。陽は次第に傾き、車窓も室内灯の反射で見えにくくなったので、田川後藤寺駅までは豊之國男様と「九州各県の県民性」について話していた。特に豊之國男様から教えていただいた熊本県民と大分県民、宮崎県民の対立関係が非常に面白かった。これには歴史的背景が絡んでいるようで、ずっと「なるほど〜」を連発していた。だが、この旅行記を書いているのは2ヶ月以上経った6月10日。対立関係の詳細は忘れてしまった。

 陽は沈み、夜の気配が漂ってきた。18:40、列車は田川後藤寺駅に到着した。ここでは私だけ途中下車して駅舎を撮影した。駅舎は綺麗な造りで、レンガ造りのレトロな建物を模したような外観だった。

   続いて後藤寺線のキハ40形に乗車。こちらの乗車率はまずまずで、大半のボックスに1人以上の乗客が座っていた。駅構内中ほどのホームには、平成筑豊鉄道の気動車が停車していた。残念ながら、こちらの車両の乗客は少なめだった。

 18:47、列車は田川後藤寺駅を発車。20分ほどで終点の新飯塚駅に到着した。既に外は真っ暗だった。到着ホームの反対側に停車していた813系博多行きはドアを開けて乗客を待っていたが、後続の快速列車に乗ったほうが早く到着できるので、この電車には乗らずに、19:16発車の817系快速に乗車。車内は空いていたので難なく座席を確保できた。次の飯塚駅で、早くも先ほどの813系を追い越した。筑前大分駅を発車すると、いくつかの駅を通過した。終点の博多駅には19:56に到着。九州の鉄道網の要とあって、電車も人も絶えず動き回っている。多くの人々が家路に急いでいるので、人々は足早に電車に乗ったり乗り換えをしていた。

 次の鹿児島本線鳥栖方面の快速は、7番乗り場から発車する。7番乗り場には、既に多くの人々が待っていて、とても座席に座れそうに無い。

 20:06、雑踏の中に813系の準快速大牟田行きが入線した。多くの乗客が降りたが、それ以上の乗客が乗ってきたので、車内はあっという間に満員に。今までの行程で、これほど混んだことは無かった。まさか九州でこのような目に合うとは・・・。電車は重たそうに唸って、博多駅を発車した。駅に停まるたびに乗客は少しずつ減っていったが、それでも座れないまま鳥栖駅に到着した。

 あと30分もすれば、長かったこの旅も終わる。寂しい気持ちもあるが、「早く家に帰ってゆっくりしたい。」という気持ちが一緒になり、とても複雑な気持ちのまま、20:50発の817系肥前山口行きに乗った。

エピローグ

   817系に始まり、817系で終わるこの旅も、残すところあとわずか。NHK−BSの番組「鉄道12000kmの旅」の関口さんが言っていたように、旅というものは出会いと別れだということを改めて感じた。宇土駅のおばちゃん、「ながら」の車内で一緒に車掌を探した男性、餘部鉄橋を撮影していた初老の男性、由布院駅でトイレの場所を教えてくれた方々・・・。会ったのはわずかな時間だったが、この旅行記では重要な登場人物である。人だけでなく、本当に最後の別れとなってしまった交通博物館や、もしかするともう行く機会は無いかもしれない吾妻線や餘部鉄橋も、この旅行記では重要な存在である。この旅行に関する全てのことに感謝したいと思う。

 私が今通っている高校は、夏休み返上で勉強をするそうだ。冬休み、春休みにしても同じだそうである。よって、このような旅行はしばらくお預けとなる。遠出するとしても、1泊2日程度になるであろう。その点では、この旅行が大変貴重なものになった。

 電車が減速する。佐賀駅に着くのだ。見慣れた2面4線のホーム。たった4日間だけ佐賀を離れていただけなのに、どこにでもあるような駅がなぜか懐かしく感られた。いや、「どこにでもあるような」は言い過ぎた。なぜなら、佐賀駅は世界中に一つしかない駅。自宅がマイホームならば、佐賀駅はマイステーション。

 数年後、この駅が私の新しい人生の出発駅になる、かもしれない。(おわり)

 

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